トップ北九州の五街道を往く香春道・秋月道を往く(国道概要)街道物語
『北九州の五街道を往く』より
香春道・秋月道を往く
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街道物語
千手・大屋家
▲千手・大屋家  
秋月・眼鏡橋
▲秋月・眼鏡橋  
さて、小倉につながる道の一つ、香春街道の歴史を辿ってみたいと思います。天平十一年(740)、吉備真備の悪政に抗して、民衆のために太宰小弐・藤原広嗣が兵を挙げたことが『続日本記』に書かれています。このとき広嗣らは鞍手道・豊前道・田河道の三つのルートを辿り、板櫃川(現・小倉北区)で中央政府の征討軍と戦いますが、この田河道が香春街道にあたるといわれています。こして歴史に現れた香春街道が次に注目を浴びたのが豊臣秀吉による九州平定の時でしょう。天正十四年(1586)、豊臣勢は島津と組んだ高橋元種を香春岳城に降伏させたのに続いて、翌天正十五年秋月種実を古処山城で降伏させますが、このときも香春街道のルートを南下しています。次は幕末です。幕府に反旗を翻した長州を討つべく行われた第二次長州征討の時に、譜代であった小倉・小笠原家は長州に敗北。幼君・豊千代丸らは肥後の細川氏を頼って香春街道を落ち延びました。一方、中老・島村志津摩が金辺峠で長州勢を迎えうち、これをくい止めるということもありました。このように香春街道は歴史上の重要な出来事の舞台として何度も記録にとどめられています。

野町
▲野町
このなかで幕末の小倉藩の闘いぶりを『小倉戦記』によって追ってゆきながら、香春街道ゆかりの場所を浮かび上がらせてみましょう。長州に敗れた小倉藩では城に火をかけて肥後・細川家を頼ることに決します。一万近い藩士や家族が「我が家を打捨て城下を見かえりつつ運ばぬ足を運ばせて」田川郡の方向に逃げてゆきます。金辺峠では島村志津摩「君に尽くす忠義の秋(とき)は今ならずや」と長州との決戦を呼びかけます。その幼君・豊千代丸は香春の採銅所の「庄屋・秋本某」の家に泊まり、翌日は香春の御茶屋で休息したあと猪膝宿で「疲労の為、気分常ならざれるにより」泊まっています。このあたりは主徒の混乱ぶりがよく伝わってきます。一方、小倉城炎上から六日たつと長州勢はぞくぞくと海を渡って小倉に入り、蒲生にある大興禅寺に準備してあった武器弾丸などを「分捕り…香春街道を行進し」北方新町で放火したりします。小倉勢はこれに発砲し呼野の本陣に引き上げています。さらに、青柳彦十郎のように「馬上豊かに嵐山の麓より徳力村を後に見て新町原に馳せ向かい…城野村を馳せ抜けて片野に至り」と、戦場を大胆に駆けめぐる小倉藩士も出てきます。この後、小倉藩は長州と和睦し、香春藩を立てて明治を迎えます。

松崎・南溝口
▲松崎・南溝口  
戦闘でなく、この道を辿ったのが全国測量で名高い伊能忠敬の一行です。文化九年(1812)の第八次測量のおりに彦山から香春を経て小倉あたりの測量をします。『測量日記』でその様子を見てみましょう。「同(七月)十三日…香春へ七つ頃着。止宿年寄米屋源右衛門、この夜も大雨…同十四日朝小雨止て曇、六つ頃香原町出立、呼野にて中食庄屋勘左右衛門、九ツ頃小倉着…」。地名と天候、そして「〜まで測る」という簡潔な記述のみの日記ながら、一行の動きと当時の地勢が明確にわかるうえに、香春街道周辺に生きた人々の名が記されていることで、道がいきいきと蘇ってくる貴重な資料です。こうした昔の街道を振り返るにつけ、今の道についても、地名は変わったのか。道はどこへつながってゆくのか。そして、どんな人が生きているのか、といった周辺のさまざななことを記録にとどめておきたい、という気になります。その記録をまた、百年後の人が読めば、今我々が江戸や幕末の記録を読んだのと同じような感慨に包まれるでしょうから。
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