トップ北九州の五街道を往く燃え石の道を往く(国道概要)香春
『北九州の五街道を往く』より
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香春
 
万葉歌碑
▲万葉歌碑  
香春岳
▲香春岳  
香春神社
▲香春神社
香春、お茶屋の門
▲香春、お茶屋の門
博多から香春を抜け、豊前国別府へ旅した貝原益軒は『豊国紀行』に仲哀峠について書き記しています。「七曲とて高き嶽あり。東西上下の坂、凡一里ばかりあり。其の山上は田河・京都両郡の境なり。山上より東北の方、海陸の眺めいとよし」。眺めがいい、というのは周防灘や苅田・行橋方面の風景がこの峠から見えたことを指しているのでしょう。
峠を降りれば香春です。「香春は名所なり。萬葉九巻に歌あり」。益軒がいう歌とは「豊国の香春は吾宅紐(わぎへひも)の兒(こ)にいつがり居れば香春は吾家」のことです。この歌のほかにも香春を詠んだ歌が七首も万葉集に収められています。鞍作村主益人の「梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋しけむかも」もそのひとつ。鏡山の河内王陵にはその歌碑が建てられています。河内王は中央から赴き、香春の地をこよなく愛したといわれています。歌に詠まれ、訪れた人をとらえて離さない…。香春はそんな魅力を持った土地だったようです。
さて、香春を代表する風景といえば香春岳です。一の岳、二の岳、山の岳と、三つの岳からなり、新羅の神を祭る霊山として知られる山です。その一の岳の上には戦国時代に城がありました。貝原益軒は「高橋右近元種がこもりし城也。黒田如水、天正14年秀吉公の命をうけ筑紫に下り、軍令をつかさどりて此の城をせめ給いしに、城主降をこひて城をあけわたしける」と、書いています。高橋元種は実兄・秋月種実を助けて大友氏と闘いを繰り広げていましたが、大友宗麟が関白・豊臣秀吉に助けを求めたことから九州の情勢は一変。島津・秋月連合軍と秀吉方である大友・毛利・龍造寺連合軍との闘いの最前線に立つことになります。秀吉の命を受けた毛利・黒田連合軍が押し寄せ、「人桝(ひとます)」という仮の城を建てて攻撃するなど巧みに攻めたため、難攻不落と謳われた香春岳城もついに落城。元種も降伏します。そんな戦乱の舞台となった一の岳はセメントが採れることから昭和の初め頃から頂上部分が削られ、五木寛之が『青春の門』で書いたような姿になっていますが、その霊山としての歴史は中腹にある香春神社が伝えています。急な石段を登り、迫り来る山容を目の当たりにすると、何やら厳かな空気に包まれていくのがわかります。
万葉の歌と霊山の里・香春は宿場の町でもあります。最初に「駅」と呼ばれた宿ができたのが七世紀の中頃で、江戸時代には小倉藩が治める宿場となりました。藩内巡視の藩主が休息する御茶屋(本陣)、外町茶屋(脇本陣)、一般の宿である旅籠、荷物の継ぎ立てをする問屋などが立ち並び、旅人や商人、馬子などが行き交う町の様子は、さぞ賑やかだったことでしょう。そのお茶屋の跡には碑が残るばかりですが、その門は香春小学校内に保存されています。そばで遊ぶ子供たちは、ただの古めかしい門と思っているだけでしょうか。それとも何かしら歴史の香りのようなものを感じているのでしょうか。
 

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