| |
 |
| ▲納祖八幡 |
貝原益軒の『筑前国続風土記』には飯塚の名の由来が書かれています。明星寺(明正寺)の開堂供養のとき、ご飯を炊きすぎて「塚の如く」積んだので飯塚となった、というのです。この「飯の山」は今も明正寺の近くにあります。明正寺といえば、珍しい記録が残っています。享保十四年(1729)、長崎街道を将軍・吉宗に献上される安南(ベトナム)の象が通ったというものです。長崎街道と遠賀川、水陸交通の要所として飯塚は賑わいました。五平太船とも川ひらたとも呼ばれた船が「燃え石(石炭)」や米を積んで行き交い、多くの人が街道を往く。そんな光景が眼に浮かびます。川ひらたは鉄道開通で既になく、近代日本を支えた石炭産業も昔語りになりましたが、街道と川の微かな名残に江戸や明治を偲びます。その街道を、ケンペルやシーボルトが泊まったオランダ屋敷跡、飯塚の氏神である納祖八幡と進むとアーケード街に入ってきます。この通り沿いの宿に泊まった太田南畝は「小さな子になつかれて自分の孫を思い出した」と書いています。飯塚と内野の間、長尾に一里塚があります。今は榎が立っていますが南畝の頃には松が左右にあったようです。シーボルトは長尾の女性を「大変優美である」としています。それまで動植物を深く観察していた彼が人間に注目しているのが印象的です。洋の東西を問わず、旅にあると人恋しいのかもしれません。 |