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『北九州の五街道を往く』より
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街道物語
豊前松江宿
▲豊前松江宿  
福岡・黒田藩に仕える貝原益軒は元禄七年(1694)に福岡を出立し、飯塚から直方、香春、七曲峠、節丸(現在の豊津町)から城井谷(築城町)を経て椎田に入り『豊国紀行』に書かれた旅をしました。豊国とは豊前(現在の福岡県東部)と豊後(ほぼ大分県全域にあたる)を合わせた一帯のことです。「豊日分神がこの国に鎮座したから」そう呼ばれていたという豊国を益軒は高瀬・大貞・四日市・宇佐・豊後高田・杵築を経て石垣原(別府市)に至り、福岡へと戻っています。藩主の命による史蹟調査という公の目的を持つ旅であったため、黒田長政が滅ぼしたという築城の城井氏のことなど、主君である黒田氏に関する箇所は詳細に書かれていますが、聞き書きに頼らざるを得なかった記述もあるといいます。しかし、江戸へ12回、京都へ24回、長崎へは5回も出かけて多くの紀行文を書いた「旅好きの益軒」が、歴史や地理について実証的に見聞を広めるという持論を『豊国紀行』においても展開したことは文章の端々からうかがえます。

宇佐神社
▲宇佐神社
益軒は現在の国道201号に沿った道筋(飯塚・香春)を経て「豊国」に入りました。一方、菱屋平七は亨和二年(1802)に小倉から現在の国道10号に沿った道筋を南下して宇佐神宮に詣でたあと、久留米から長崎・博多を経て再び小倉へと戻る旅をしています。平七は本名を吉田重房という名古屋の豪商です。平七はこの旅を『筑紫紀行』という本にまとめています。その序文には、自分は隠居して東方武城(江戸)や日光、また西国・中国・九州に遊ぶのだが、これも「井蛙(せいあ)の見聞(狭い知識しか持たないこと)」を広めるためで「逸遊をこころざせるのみにはあらざりしぞかし(ただ遊びたいだけではない)」ということが書かれています。ただの遊びではないと強調しながらも益軒と同じく無類の旅好きだった人となりが、ここから浮かび上がってきます。平七の文の特徴は「記録」です。「人家十軒計茶屋貳軒あり」とか「十丁計り行ば塩浜あり」というように事実を正確に書き留めており、江戸期の街道周辺の様子を知る資料として高い価値を持っています。

国分寺三重塔
▲国分寺三重塔
 (豊津)
この二人の旅好きの書いた紀行文を頼りに歩く中津街道は今、あるところでは国道10号と重なり、あるところでは消えていたりします。しかし、眼を凝らして歩けば、まぎれもなくかつての街道の姿が浮かび上がってきます。大里から来て中津街道に合流する大分脇道。湯川あたりの街道の風情。曽根新田干拓に賭けた石原宗祐の夢。国道の脇の草むらの中に昔ながらに建ち企救郡と京都郡の境を告げる狸山の郡境石。苅田の宿の里程標。青い海原の周防灘。大橋の御茶屋跡。華やかな山車に彩られる今井の祇園祭。豊津は豊前国府の誇り、国分寺三重塔の壮麗。戦国の世の哀愁が漂う城井城跡。椎田の浜辺、菅原道真ゆかりの綱敷神社。下往還と上往還に分かれる四郎丸の追分。八屋の宿から修験の山・求菩提山に伸びるクボテ道。山国川の向こうの中津城…。中津は福沢諭吉の出身地、生家の見学に多くの人たちが訪れる街です。
こうして旧街道が伝える永い歴史の傍らを曽根バイパスや行橋バイパス、椎田道路、豊前バイパスなどの新しい道が走り抜けてゆきます。これも北大地域(北九州と大分)と名前を変えた豊国の道(北大道路)です。
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