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道の歴史を知ろう!
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道のはじまり
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日本の道について最も古い記述は、有名な中国の史書『魏志倭人伝』にあります。このなかで中国の使者が、対馬に上陸した際に「道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し」と感想を残しました。
一方、日本の文献に初めて道の様子が登場するのは『日本書紀』で、神武天皇が東征を行った際に道のようすを「路嶮しくして、人並み行くを得ず(道が狭く嶮しいために人が2列で進めなかった。)」と記しています。
これらの文を読む限り、この頃の道は、嶮しい山や草深い土地の間を縫うように続き、まだ充分に整備や管理がされていなかった事がうかがえます。
やがて大和朝廷が成立し、畿内に都が作られると同時に道路の建設も行われました。
こうして「道づくり」は都や周辺の土地へと拡がって行きます。

◆五畿七道
大化改新(645年)で、日本は古代律令国家へと歩み始めました。
都と地方に置いた国司・郡司の間を伝達や情報が、いち早く伝わるための「駅制」を整備し、これをもとに「駅路」が運営されます。
やがてこの駅路は官道として畿内より地方へと続く七つの路線が造られました。これが「七道」です。ここで言う七道とは領域も表しており畿内にある5つの国と合わせて「五畿七道」と呼ばれました。
この七道は日本で最初に作られ、それ以降現代に至るまで全国的な幹線道路網の基本となったものです。
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◆五街道・脇街道
全国的な道路の整備が再び行われたのは、江戸時代に入ってからです。徳川幕府は政権が安定するとともに、幕府の直轄による江戸を中心とした五街道や各藩に管理をさせる他の脇街道や脇往還などを整備しました。
街道には関所が設けられ一里塚の設置や並木が植えられたりと道路整備も進み、参勤交代や一般の通行人の増加により宿場も発展するなど大変便利な道路へと変わってゆきました。
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◆国道表
江戸時代が終わり、明治政府による新しい時代が始まりました。
政府は各県に対して「道路里程標調査」を命じたり、道路に1〜3級の等級を付けそれに合わせて道幅の規定なども定められました。
しかし、この等級制度は明治18年(1884年)に廃止となり、同年2月には東京〜横浜港の国道1号、東京〜大阪港の国道2号、東京〜神戸港の国道3号、東京〜長崎港の国道4号など全国44路線の「国道」を定めた「国道表」が決められました。この路線は明治44年(1911年)に60路線となり、こうして現在の国道の本格的、計画的な路線の整備・改修の基礎が築かれました。
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◆大正・昭和の道
大正時代になり、社会の発展とともにより一層の道路網の整備が進みました。
大正8年(1919年)には旧「道路法」が制定され、道路に関する法体系が整備され、大正9年(1920年)8月10日には我が国最初の道路整備長期計画となる「第一次道路改良計画」が策定され、近代的な道路網の整備が進むこととなりました。
そして、第二次世界大戦後の昭和27年(1952年)6月10日に現在の「道路」の基本となる「道路法」が制定され、国道も新たに一級国道・二級国道が指定されました。昭和29年(1954年)には「第一次道路整備五箇年計画」が策定され、現在の道路網へと繋がる道路整備が開始されています。
また、昭和32年になると「高速自動車国道法」が制定され、全国の高速道路網の整備が始まり、日本も本格的な自動車時代を迎えます。
国道は昭和40年に一級・二級の区別をなくした「一般国道」となりました。
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