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大里宿
大里宿跡の松門司から現在の国道3号・国道199号を小倉方面へ向かうと、まもなく大里の町があります。
古くは、「柳」や「柳ヶ浦」と呼ばれていましたが、寿永3年(1183年)都を追われた平家一門が、安徳天皇を擁してこの地に「柳の御所」を設けた事で「内裏」と呼ぶようになり、それが江戸時代に今の大里と改められました。
関門海峡に面したこの町は、関門橋が架かる早鞆の瀬戸に次いで下関側と接近しており、比較的に潮流も穏やかな事から古くから関門を渡る港として利用されていました。
江戸時代、譜代大名の小笠原家が寛永9年(1632年)に小倉藩主として転封し、やがて参勤交代の制度も始まった事で、大里は海峡を渡る大名や旅人の宿場町として賑わいます。
今も残る街道筋は、海側の国道199号と山側の国道3号、JR鹿児島本線とほぼ平行に通っており、道筋には当時を偲ばせる民家や街道の松が残っています。

宿屋の道筋にある石碑
大里宿跡石碑
◆大里宿跡
大里宿は長崎街道に沿った直線五町五十二間(約646メートル)の町並みで、ここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠屋が建ち並んでいました。また、この碑の西隣には長崎番所が設けられていました。
一里塚跡石碑
◆一里塚跡
大里宿は江戸への玄関口であり長崎街道の始終着駅でした。藩政期街道要路には里程の目安として一里塚標石を設けていました。

御番所跡石碑
◆御番所跡
本土との渡海口に当たりここの在番役人は舟の出入り、人馬の切手改め、荷抜けの取り締まりを行っていました。当時、御番所はこの碑のある海側にありました。
  人馬継所跡石碑本陣重松彦之丞屋敷跡石碑
◆本陣重松彦之丞の屋敷跡・
 人馬継所跡

この他にもこの大里宿跡には、革命により全国の測量を行った伊能忠敬が止宿した本陣重松彦之丞の屋敷跡、参勤交代の大名に人足や馬を提供する人馬継所跡などの碑が設けられています。
※この説明文は各碑より抜粋しました。

 

足掛け石◆足掛け石
街道筋の民家。この家の前には、そのころ馬の乗降に使用していた「足掛け石」が今も残っています。
  住吉神社◆住吉神社
江戸時代中期、海上鎮護異国船追討の祈願成就を奉謝して小倉藩二代藩主忠雄公が建立。現在は海岸沿いに移設されています。


西生寺◆西生寺
細川藩時代には浜御殿があった場所。
現在の寺は小笠原藩二代藩主忠雄により他所からここに移されました。

 

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