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北九州みちくさ紀行
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門司関跡
門司関跡関門地区地図律令時代、九州には外国との窓口であり、西海道(九州)を治める国府『太宰府』が置かれていました。「遠の朝廷(とおのみかど)」「西の都」などと呼ばれていた太宰府と都を結ぶ官道は大路として特に重要視され、なかでも九州の窓口にあたる門司には、古くより関所が置かれていました。
太宰府の直轄下におかれていた関門海峡や門司関は平安時代後期には平家(1167年平頼盛が太宰府に赴任)が、北条時頼の時代(1244年)には後に門司氏の祖となる下総親房が下向し治めます。以来、西国大名の大内氏や毛利氏など歴代の統治者も、この門司を交通の要衝として支配下に置きました。
もともと『門司』の地名の由来は“門を司る関所”という意味だといわれていまが、その門司関跡の碑が和布刈(めかり)公園の入口近くにある和布刈(めかり)神社の一の鳥居横に建っています。

 
明石与次兵衛の碑
明石与次兵衛の碑 文禄元年(1592)7月、朝鮮出兵の為、名護屋城にいた豊臣秀吉が母の急病の報を聞きいて急遽大阪に帰る途中、秀吉を乗せた船が、関門海峡最大の難所といわれた「篠瀬」で座礁しました。
秀吉は危うく難を逃れましたが、船奉行であった明石与次兵衛は、責任を負い大里の浜で割腹。後年、この話を聞いた領主の細川忠興が与次兵衛の死を悼むと共に往来船舶の安全を願って「篠瀬」に与次兵衛塔を建て示標としました。
この話は江戸時代、日本を訪れたシーボルトの著書『日本』にも挿絵と共に紹介されていますが、現在、和布刈(めかり)公園の中腹にあるこの塔は、その後改めて造られたものです。

 
源平壇之浦合戦
和布刈公園の壁画寿永2年(1183年)源氏である木曽義仲によって都を追われた平家は平清盛の外孫にあたる安徳天皇を擁して一旦、九州へと落ち延びます。その後、東へ進んだ平家は一時勢いを盛り返しますが、摂津、四国の屋島などで源義経の攻撃により敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した源氏と関門海峡で対峙しました。
 寿永4年(元暦2年、1185年)3月24日の卯の時(午前6時ころ)、関門海峡のなかで、最も潮流の激しい早鞆の瀬戸を舞台に海戦は始まります。
白旗の源氏と赤旗の平氏。両軍あわせて四千余艘の船が入り交じって海戦を繰り広げました。
 当初、東流れの海流に乗って西方より攻めた平家が優勢でしたが、午後3時頃には海流が西流れに逆転、東方の源氏は勢いを盛り返します。さらに、四国、九州の平家方の寝返りや、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法が功を奏して、夕方近くには平氏の敗北は決定的となりました。
 平氏の多くは、自決や入水をし、平清盛の妻で安徳天皇の祖母二位尼も御座船より八歳の安徳帝を抱き、海中に身を投じます。
この関門海峡を眼下に見下ろす和刈布(めかり)公園内には赤間神宮の社宝、安徳天皇縁起図を参考に描いた壁画があります。
壁画の中には、御座船に乗る安徳天皇、建礼門院、二位尼の姿や海上を跳躍する源義経八艘跳びの図など、歴史に有名な壇ノ浦の合戦が克明に描かれています。

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