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関門の渡し賃
文明19年(1487)西国の大名である大内氏は豊前、筑前、筑後など現在の福岡県のほぼ全域を支配していました。この頃、門司や赤間ヶ関(下関)は明との勘合貿易船の発着所となっており、大内氏はこの貿易を独占して行うようになりました。
関門海峡を往来する人や荷物も頻繁になり、やがて不当な船賃を取り立てる者などが現れ、大内氏の元へ頻繁に苦情が申し入れられました。
当時の領主である大内政弘は「大内家壁書」をつくり、その中で船賃を次のように定めました。

一、関(赤間関)と小倉の間 3文
一、関と赤坂の間 2文
一、関と門司の間 1文
一、よろいからびつ 15文
一、こし一丁 15文
一、馬一匹 15文
一、犬一匹 10文
  文明19年(1487)4月20日
右、渡り賃のこと、前より定をかるといえども舟方ども御法を破り、渡る人を悩ますことあらば、その舟方を関・小倉の代官所の所へ御引き渡し、代官の所より山口へ注進されたし。  
関門海峡
▲関門海峡


次いで、江戸時代の下関の商人 伊勢屋小四郎の看板には、次のように記されています。
下関から
小倉まで貸切 1貫3百文
大里まで貸切 1貫
小倉まで乗り合わせ 60文
大里まで乗り合わせ 60文
安永6年(1777)


イメージもう少し時代が過ぎて、文化10年(1813)野田成亮の『日本九峰修行日記』には
大里から下関 一人分80文

さらに安政6年(1859)河井継之助の『塵壷』では、阿弥陀寺より100文、内裏(大里)にて20文(払う)と書かれています。
こうして、続けて見ると時代と共に少しずつ渡し賃が値上がりしている事が、わかります。

 

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