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道の歴史を知ろう!
なぜなにQ&A  

Q 歴史国道ってなに?
A 「道」は人や地域の交流を支え、文化の交流・伝達を行う上で大きな役割を果たしてきました。そして「道」は時代の流れとともに利用され方も変化し、その姿もかえています。
その中で、現在も昔のままの姿をそのまま残している「道」も数多くあり、こういった「道」は貴重な文化遺産であり適切な保存や、可能な限りの復元を行うことで、新たな文化の創造となりえるとの考えの基に、歴史上重要な幹線道路として利用され、国として特に重要な歴史的・文化的価値を持つ道路を対象に、保存や復元、整備活用を国土交通省を中心として取り組んでいます。
九州には、『日田往還』(大分県日田市)や『長崎街道・日見峠』(長崎市)などがあります。
 

Q 昔の街道の道はどんな所に残っていますか?
A 江戸時代、各地の大名が参勤交代に通った街道は、その頃とても重要な幹線道路でした。
特に外国に向けて唯一の開港地であった長崎と江戸を結ぶ長崎街道をはじめ、大分道、香春道、唐津街道(福岡道)など北九州には多くの街道が通っていました。
こういった街道の跡はいまも所々に残っています。
こういった道には、今も昔のままの一里塚や追分け石、道祖神などが残っていたり宿場跡には、本陣や茶屋の跡といった石碑が建っている事もあります。
また、現在の国道に沿うように町の中を通っている街道なども多く、意外とあなたの家の前の道が、街道だったかもしれません。
秋月街道八丁峠に残る追分石

「秋月街道八丁峠に残る追分石」
 

Q 一里塚ってなに?
A 徳川家康は江戸に幕府を開くと、江戸を中心に五街道の整備も始めました。
この際、江戸の日本橋を起点に一里(約4km)ごとに塚を築き、木を植え道のりの基準としたものが一里塚です。
この街道の整備は、幕府により参勤交代の制度が定められた事で、やがて全国的に進みます。また、この一里塚は、乗り物の賃金を決める目安にもなっていました。なお、明治9年(1876年)には道路の距離調査が済み里程標などの整備が終わった道の一里塚は、古墳や並木の一部になっていないものは毀してよいとの布告が出され、一里塚は姿を消していくこととなりました。
昔の街道沿いの道では、現在でも随所に一里塚の跡や植えられた木が保存されています。
 

Q 宿場にはどんな施設があったの?
A 参勤交代の大名や、商人など多くの旅人が利用した宿場には、一般の人が宿泊する『旅籠』、参勤交代の大名や身分の高い人が泊まる『本陣』(御茶屋)、幕府の役人や参勤交代の大名に馬や人足を提供する『人馬継所』、通行人を監視する『番所』や『代官所』など、たくさんの施設がありました。
北九州市木屋瀬にある宿場跡には、宿場町の出入り口にあった構口(かまえぐち)なども残っています。
 

Q 道路の舗装はいつ頃から始まったの?
A 現在のようなアスファルトの舗装道路の日本での始まりは、明治44年(1911)から大正3年(1914)にかけて行われた、東京京橋〜日本橋の間と名古屋市の大須観音入口での試験舗装だと言われています。
また、それ以前には長崎や平戸で石畳による舗装が江戸時代初期におこなわれ、各地の峠越えの街道などにも石畳が敷かれていました。
北九州にも、長崎街道の内野・山家間にある冷水峠や、秋月街道では千手・秋月間の八丁越などにこの石畳の道が残っています。
秋月街道八丁峠の石畳

「秋月街道八丁峠の石畳」
 

Q 北九州で歴史の面影が残る道はどこ?
A 古くから数多くの道が集まっていた北九州には、歴史の面影が残る道がたくさんありますが、ぜひ一度は歩いてほしい道を挙げると、北九州市八幡西区にある『曲里(まがり)の松並木』です。
ここは長崎街道の一部分を公園として整備したもので、700mほどの松の並木道が続いています。
小高い土手の上にあるこの並木道を歩くと、昔の街道の面影を感じさせてくれます。
場所:JR黒崎駅から南へ約500m 厚生年金病院前の交差点を西へ200m程で長崎街道入口に着きます。
北九州市八幡西区にある長崎街道「曲里の松並木」

「曲里(まがり)の松並木」
 

Q 現存する一番古い日本の地図は何ですか?
A 日本全体が描かれた地図で一番古いものは、奈良時代の僧、行基(ぎょうき)が作ったといわれる『行基図』です。伝道と救済の旅で各地を歩いた行基の地図は、丸みを帯びた国々を付け合わせて本州、四国、九州を描き、各所を大まかな道で繋いだものですが、おおよその日本の形がわかります。
以降、この地図は江戸時代の初期まで多くの人が写し使用していました。
もう一つ有名な地図は江戸時代に伊能忠敬(いのう ただたか)によって作られた地図です。この地図は全国を測量して作られたもので、現在の地図とほとんど変わらないものでした。
伊能忠敬によって作られた地図は明治政府へと引き継がれ、その後の日本地図を作るための基礎となりました。
「日本図(伊能小図:部分)」当画像の複製には国立国会図書館の許諾が必要になります。

「日本図(伊能小図:部分)」
国立国会図書館ホームページ・貴重書画像データベースより転載、当画像の複製には国立国会図書館の許諾が必要になります。
 

Q 昔の街道に並木を植えたのはなぜ?
A 奈良時代。東大寺の僧、普照(ふしょう)の提案で旅人の休息や飢えを防ぐため、全国の駅路の両側に果樹が植えられました。戦国時代の織田信長や上杉謙信なども松、柳、柏、榎などの並木を植えさせています。江戸幕府も五街道や脇街道など全国すべての並木の植えつぎを規定しています。また幕府だけでなく各藩の努力もあり街道沿いの並木は大切に保護されていました。これは陽射しや風から旅人を守るための政策であり、明治時代になっても並木を保護する政策は受け継がれ、むやみに伐採をしない・植えつぎをするようになどとの布告が出されています。
並木(街路樹)は、昔も今も道行く人の心を和ませてくれます。
 

Q 北九州を通っていた昔の道は?
A 昔といっても幅が広いのですが、奈良、平安時代に初めて全国的な計画道路網がつくられた頃、北九州にはとても重要な道路が通っていました。それは全国にひかれた『七道』のうち最も重要な『大路』として今の門司から海岸沿いに北九州を通り、太宰府へとつづく『太宰府官道』です。この頃太宰府は九州の中心地で、外国からの使者や文化を受け入れる窓口にもなっていました。九州から中央の都へ、また都から九州へ向かう人々がこの北九州の道を歩んでゆきました。
 

Q 関門トンネルはいつ頃できたのですか?
A 関門鉄道トンネルが昭和17年(1942年)に、関門国道トンネルは昭和33年(1958)年に開通しました。
ちなみに関門海峡にトンネルを通す計画(研究)は明治の中頃からすでに始まり、現在の関門国道トンネルは昭和12年(1937年)に計画され、昭和14年(1939年)に着工、昭和17年(1942年)5月には貫通したものの戦争により中断し、昭和33年に開通しています。
関門トンネルが開通したおかげで、本州〜九州の行き来はとても便利になりました。
関門国道トンネルを抜けて九州に入るとそこは門司のまちです。この門司から九州を南北に縦貫する国道3号が始まります。このほかにも北九州には国道10号、200号、322号、495号など、九州各地へ向かう国道の起点(出発点)が、数多くあります。
関門国道トンネル(北九州市門司区側)

「関門国道トンネル(北九州市門司区)」
 

Q 明治時代の道路はどこを起点に距離を測っていたのですか?
A 明治時代に入り、関所を廃止するなど交通の発達に向けた動きが盛んになってきます。明治2年(1869年)には各地で不統一だった距離(里程)単位を1里=36町に定め、諸街道の距離を測るよう命令が民部省から出ています。
明治6年(1873年)になり太政官より改めて全国の道路距離調査を命じています。このとき、東京の日本橋と京都の三条橋の中央が国内全体の起点とされました。また、同時に東京・京都を除く各府県では県庁所在地に中心(元標)を置き、距離を測るようよう決めらました。また、同時に里程標を各地の重要な場所に建てるよう定められ、これには東京と京都からの距離と、近隣への距離が記入されましたが、後に東京・京都への距離は記入しないよう改正されています。
 

Q 大正時代の道路はどこを起点に距離を測っていたのですか?
A 明治時代には東京・京都の二箇所に全国の道路の起点が置かれましたが、大正8年(1919年)に公布された道路法や道路法施行令によって東京市の日本橋に統一され、日本橋の中央に「東京市道路元標」を設置し、全国の国道の起点としました。
地方では各府県庁所在地に道路元標が置かれていましたが、大正8年の道路法施行令で各市町村に一つ道路元標を置くと定められ、市町村道だけでなく府県道も各市町村の道路元標を元に距離を測るようになりました。
現在、「東京市道路元標」は移設されていますが、橋の上には今でも「日本国道路元標」のプレートが設置されています。
戦前の日本橋と道路元標

「戦前の日本橋と道路元標」
土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリ所蔵
 

Q 大正時代の道路標識はどのようなものですか?
A 大正11年(1922年)に初めて全国統一の「道路標識」として道路警戒標と道路方向標が制定されました。
道路警戒票は学校や踏切、道の交差や道の上り下りなど交通の危険がある場所を知らせるもので縦60センチ横45センチの板に黒地に記号や文字を白で記入し、その上に赤色の三角板を付けた、高さ2.5m程度のものでした。
道路方向標は現在地や目的地への距離などを教えるためのもので縦60センチ横100センチの板に白地に矢印と文字を黒で記入していました。
標識の設置箇所ですが、道路警戒標は交通の危険がある場所に設置され、現在に比べるとはるかに少ない種類しかありませんでした。また、現在の経路案内標識は見やすいよう門型や片持式の支柱や歩道橋に添架するなど路上の高い位置に設置していますが、当時の道路方向標は道路に面して路端に設置し、高さも2.1メートル程度でした。
◆大正11年に制定された道路標識(例)
  
道路方向標道路警戒標・踏切
上に掲げた図は大正11年に制定された道路標識の一例です。右の図は「道路方向標」といい、現在の「案内標識」にあたります。左の図は「道路警戒標」の例で現在の「警戒標識」にあたります。大正11年にはこの2種類が制定されました。現在のような「規制標識」や「指示標識」は昭和17年(1942年)5月に「道路標識令」で「案内・警戒・禁止・制限・指示」が制定され全国統一様式が定められました。現在では「案内・警戒・規制・指示・補助」標識が定められています。
 

Q 九州の国道で現在でも使われている最も古い橋はどこにありますか?
A 九州の国道で今も使われている最も古い橋は、国道34号の湯野田橋です。
湯野田橋は明治21年(1888年)佐賀県嬉野町湯野田の塩田川支流に架けられた15mの石橋で、現在でも佐賀と長崎を結ぶ幹線道路として多くの人々が利用しています。なお、この橋は全国の国道の中で最も古い橋でもあります。
ちなみに日本の道路の中心である日本橋は国道に架かる橋としては3番目に古い橋です。(明治44年架設)
 

Q 昔のトンネルはどのようにして造っていましたか?
A 大分県の耶馬渓に残されている「青の洞門」(延享3年:1746年完成)に見られるように江戸時代までは専ら鑿と鎚を使って人力で掘られていました。
明治時代になり西洋の進んだ技術が取り入れられ、少しづつダイナマイトなどの火薬類や蒸気機関など機械の利用が始まりましたが、基本的に人力により施工されるところは変わりませんでした。
下の写真は土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリが所蔵する長崎県日見隧道の絵葉書です。
日見隧道は大正15年(1926年)に長崎県の施工で完成しています。この絵葉書からも当時は機械よりも人力にて施工されていたことがうかがえます。

◆日見隧道(ひみずいどう)
大正15年(1926年)に開通した日見隧道は、長崎県によって国道25号(当時)の交通の難所であった日見峠の改良のために造られました。
全長634mの日見隧道はコンクリートブロックとコンクリートによって造られ、当時のお金で477,601円の工事費が費やされています。
この日見隧道の完成により日見峠の急カーブは39箇所から1箇所に減じ、年間約25万円(当時)の節約効果があるものと試算されました。【所在地】長崎県長崎市御手水〜芒塚町

右の絵葉書は完成した日見隧道です。装飾された入口は現在でも変わらぬ姿で利用されています。
日見隧道東口
「二十五号国道日見隧道東口坑門」
土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリ所蔵
  
側壁コンクリート工事の施工です。この絵葉書からもわかるように当時は多くの作業員の手によって施工されていました。また、トンネルの壁を支えている支保工(しほこう)も木材で作られています。










日見隧道側壁コンクリート工事
「側壁混凝土(コンクリート)工事」
土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリ所蔵
内部巻立工事の施工です。型枠に添って重いコンクリートブロックを積み上げてコンクリートを充填、トンネルのアーチ部分を作り上げていく大変な作業も、多くの作業員の人力によって行われています。











日見隧道内部巻立工事
「内部巻立工事」
土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリ所蔵
坑内掘鑿工事の施工です。トンネルのアーチ部分を作りあげた後、床部分を掘り下げ、トンネル全体を作りあげていきます。
当時はベルトコンベアーやトラックなど現在の工事で使われている運搬手段は使われていません。
掘った土はトロッコを使って外へ運び出していました。右の絵葉書にそのレールが写っています。
日見隧道坑内掘鑿工事
「坑内掘鑿工事」
土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリ所蔵
 

Q 関門橋はいつ頃できたのですか?
A 北九州市と下関市を隔てる関門海峡に架かる関門橋は、昭和40年(1965年)に計画が発表され、高速自動車国道として昭和48年(1973年)11月24日に開通しました。橋長1,068mの関門橋は完成当時日本最長の橋でした。
関門海峡に橋を架けて九州と本州を結ぶ計画(研究)は明治20年代始めにはすでに始まっています。
明治時代より大正時代にかけては鉄道橋として計画(研究)が進められていますが、昭和時代には道路と鉄道の併用で計画されています。
現在の関門橋

「関門橋」
 

Q 昔の道はどのような舗装をしていたのですか?
A 江戸時代までは峠道などを「石」で舗装していましたが、明治時代になると東京・横浜などの大都会で「舗装」が始まります。この頃の「舗装」は「石」や「煉瓦」を使いました。その後明治時代の終わり頃から試験的にコンクリート舗装が始まり、大正時代には将来の自動車交通の発達や経済の発展を見越して舗装道も徐々に距離を伸ばします。このころは舗装技術の過渡期でもあったので、舗装の材料は「木」「煉瓦」「石」「コンクリート」「アスファルト」「ゴム」など多くの種類が使われました。しかし、現代でいう「舗装道」は大都市や主要道のみであり、多くの「道」は「砂利」で舗装していました。
 

Q 遠賀川に大正時代の国道の橋が架かったのはいつ頃ですか?
A 大正13年(1924年)に国道2号(現在の国道3号)の遠賀川橋が架けられました。
それ以前は渡し船で遠賀川を渡っていたのですが、自動車交通に対応できないことや増水による通行止めを無くすこと、また、大正8年に遠賀川の改修工事が終わったことから架橋されました。
この橋は現在の遠賀郡水巻町立屋敷1丁目から遠賀郡遠賀町大字広渡にかけて架けられ、幅約7m、延長約370mの鉄筋コンクリート橋でした。現在、同所には新しい遠賀川橋や遠賀大橋が架けられています。
このほか、大正時代には遠賀川に芦屋橋(遠賀郡芦屋町)や遠賀橋(中間市)などの道路橋が架けられています。
 

Q 大正時代の自動車の制限速度はどのくらいだったのですか?
A 自動車が普及し始め、交通事故の増加が問題となってきた大正8年(1919年)1月に自動車取締令が公布され、この中で自動車の制限速度が定められました。
当時の制限速度は時速16哩(約25.7km)。現在の制限速度に比べるとずいぶんゆっくりとしたものでした。
 

Q 新しく国道が作られると、以前からの国道はどのようになるのですか?
A 交通量の増大など、社会の変化に応じて道路も変化していきます。道幅を広げるだけでなく、時には新たに迂回路(バイパス)を作ることにより交通の便を図ることもあります。新しくバイパスが作られると以前の国道は県道などになり、引き続き地域の生活道路として利用されていきます。
たとえば、曽根バイパス(北九州市小倉南区湯川〜朽網間、8.66km)が国道10号となると、以前の国道10号は県道門司行橋線の一部となり、現在も活用されています。
 

Q 娯楽としての「ドライブ」が始まるのはいつ頃からですか?
A 自動車の発達は、道路に新しい機能である「遊び」を加えることとなりました。それまで「道」には主に「人」・「物」・「情報」を運ぶ機能をもち、「信仰」や「遊び」という機能がそれに加わっていました。
しかし、自動車の発達は新しい娯楽である「ドライブ」を生み出します。昭和初期より、各地の風光明媚な観光地に「ドライブウェイ」などの「遊びの道」が造られます。九州でも昭和11年に長崎県の雲仙に「仁田自動車有料道路」が開通しています。
北九州でも昭和6年(1931年)に門司市(現:北九州市門司区)により遊覧客の誘致等を目的として清滝公園(北九州市門司区)より風師山へと登る「風師山ドライブ道路」が計画されています。
 

Q 鉄製の道路の橋はいつごろから架けられましたか?
A 産業革命以降の産業の発達により鉄の生産が増大したこともあり、それまでの木や石に変わって「鉄」が橋の素材として使われるようになりました。1779年イギリスにコールブルックデール橋が世界最初の鉄の橋として架けられました。
日本では明治元年(1868年)長崎に「くろがね橋」が架けられました。なお当時の鉄の橋には「錬鉄」や「鋳鉄」が使われていました。現在のように「鋼」が橋の材料となるのは明治20〜30年代(19世紀末)からです。
世界最古の鉄橋

「コールブルックデール橋(アイアンブリッジ)」
土木学会附属土木図書館・田島二郎氏橋梁写真集所蔵
 

Q 九州で現在でも使われている最も古い鉄製の橋はどこにありますか?
A 九州で今も使われている最も古い鉄製の橋は、長崎市の中島川に架かる出島橋(全長36m)です。
出島橋は明治23年(1890年)新川口橋としてアメリカより輸入されましたが、長崎港の港湾改修工事による中島川の河川改修に伴い、明治43年(1910年)現在地へと移築され、橋名も出島橋と改称されました。この橋は現在でも現役の橋として多くの人や車が利用しています。
なお、この橋は道路に架かる鉄製の橋としては全国でも最も古い橋でもあります。
出島橋

「出島橋」
土木学会附属土木図書館・田島二郎氏橋梁写真集所蔵
 

Q 保存されている最も古い鉄製の橋はどこにありますか?
A 橋全体が保存してある最も古い鉄製の橋は、東京都江東区に保存されている(旧)弾正橋(現・八幡橋)です。
(旧)弾正橋は明治11年(1878年)工部省赤羽製作所にて製作され、東京都中央区京橋楓川に架けられましたが、関東大震災後の復興計画に伴い、昭和4年(1929年)i現在地へと移設されました。
その後、昭和52年(1977年)に重要文化財(建造物)に指定されています。
また、橋の一部が保存されている例としては、明治6年(1873年)に架けられた(旧)心斎橋のアーチ部分が大阪市の鶴見緑地公園に保存されています。
明治時代の(旧)心斎橋

「明治時代の(旧)心斎橋」
土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリ所蔵
 

Q 今も残る最も古い道路の石橋はどこにありますか?
A 道路の石橋として最も古い橋は長崎市の中島川に架かる「眼鏡橋」です。
この眼鏡橋は、今から約370年前の寛永11年(1634年)に架けられた橋長23mの二連アーチ橋です。
その後、昭和35年(1960年)に重要文化財(建造物)に指定されていますが、現在でも現役の「橋」として利用されています。このほか、熊本県の「霊台橋」(弘化4年・1847年)や「祇園橋」(天保5年・1834年)などの道路の橋が重要文化財に指定されています。
なお、重要文化財となった最も古い石橋は沖縄県那覇市の「旧円覚寺・放生橋」(明応7年・1498年架橋)ですが、この橋は寺院庭園の一部として架けられたものです。
戦前の眼鏡橋

「戦前の眼鏡橋」
土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリ所蔵
 

Q 国道に架かる橋で重要文化財に指定されている橋はありますか?
A 国道に架かる橋として重要文化財に指定されている現役の橋は、国道1号等の起点である「日本橋」(東京都中央区)と国道7号に架かる「萬代橋」(新潟県新潟市)です。
いずれも意匠的・技術的に優れていることから重要文化財の指定を受けています。
「日本橋」が明治44年(1911年)、「萬代橋」が昭和4年(1929年)に架設され、「日本橋」が平成11年に、「萬代橋」が平成16年に指定を受けました。
明治44年完成時の日本橋

「明治44年完成時の日本橋」
土木学会附属土木図書館・戦前土木絵葉書ライブラリ所蔵
 
Q 日本ではコンクリートの道路の橋はいつごろから架けられましたか?
A 明治時代になり、日本でもセメントを生産することができるようになると建築などにコンクリートが使われてくるようになりました。19世紀中頃にフランスで鉄筋コンクリートが発明されたことなど技術の発達もコンクリートの利用を容易にしています。
明治36年(1903年)、京都市山科区にある琵琶湖疎水に約7mの鉄筋コンクリート橋が架けられました。この橋が日本で最初のコンクリート橋といわれています。なお、この橋は現在でも利用されています。
 
Q 今も残る最も古い道路のトンネルはどこにありますか?
A 現在でも残る道路のトンネルで最も古いものは、大分県中津市の耶馬渓にある「青の洞門」です。今から約250年前に約30年の歳月をかけて禅海によって造られました。「青の洞門」はトンネル部分と岩道部分を合わせて約300mありましたが、全て「鑿」と「鎚」の手掘りで造られたと伝えられます。明治以降に大幅に拡張されましたが、一部に禅海によって造られたと伝えられるトンネルが保存され、多くの観光客を集めています。
 
Q 現在でも使われている最も古い国道のトンネルはどこにありますか?
A 現在でも残る国道のトンネルで最も古いものは、国道143号にある「明通トンネル」(長野県、約95m)です。明治23年(1890)に造られました。その後度々補修工事を受けながら現在でも利用されています。
 
Q 国道のトンネルで重要文化財に指定されているトンネルはありますか?
A 現在でも使われている国道のトンネルで重要文化財に指定されているトンネルは、国道414号の(旧)天城隧道(静岡県伊豆市〜静岡県賀茂郡河津町)です。明治37年(1908年)に造られた天城隧道は全長445mの総石造りであり、技術的に優れているものとして平成13年に指定を受けました。
現在では(新)天城トンネルが開通し、地域の主要な交通路としては役目を終えていますが、天城隧道は小説や映画などに度々取り上げられたことから観光資源として地域振興に役立っています。
 
Q 「国道」ができるまで道路はどのように区分していましたか?
A 明治9年に「国道」という道路の区分が定められましたが、それ以前にはどのような区分をしていたでしょうか。
奈良時代などの律令時代には「大路」「中路」「小路」といった「官道」が、江戸時代には「街道(往還)」「脇往還」といった区分がありましたが、全国の多種多様な「道」を統一して区分する基準は有りませんでした。
明治時代になっても「街道」「脇往還」という区分が使われていましたが、明治6年(1873年)8月に東海道などの主要な街道を「一等道路」、脇往還などを「二等道路」、村市の道路を「三等道路」とする「河港道路修築規則」による区分が定められ、明治9年6月に道路の等級を廃止し、「国道」「県道」「里道」の区分が定められました。
 
Q 「一里」が約4kmとなったのは何時代ですか?
A 時代劇などでもおなじみの「一里」という距離が全国統一され、約4kmとなったのは、明治時代になってからです。
江戸時代までは各地方で「一里」は別々の距離でしたが、距離の不統一が交通・流通の発達を阻害することを考慮して、明治2年(1869年)11月に「一里」を三十六丁として街道の距離を測るよう民部省より命令が出され、明治6年(1873年)12月には太政官より「一里」=「三十六町」、「一町」=「六十間」、「一間」=「曲尺六尺」と定めた街道等の距離調査が命令され、全国の距離の単位が統一されることとなりました。
なお、筑紫(現在の福岡県:京築地域と筑豊地域の一部を除く)では江戸時代末まで一里=五十町で計っていました。
 
Q 第二次世界大戦以前にはどのような舗装が最も普及していましたか?
A 明治時代末よりわずかづつアスファルトやコンクリートなど現代に通じる舗装が東京などの都会で行われていましたが、その延長は道路全体に比べるとわずかなものでした。しかし、当時の統計では国道などの主要な道路では「舗装」された道が多くなっています。この「舗装」に使われていたのが「マカダム式舗装」でした。
「マカダム式舗装」とはイギリスのマカダムが始めた舗装で、細かく砕いた石を敷き固め、馬車などの交通や雨や雪などの気象から道路を守ろうとしたものでした。
しかし、交通量の増大や速度が早く重量物を運べる自動車の普及により路面が痛むことが多くなり、補修を繰り返すこととなります。
第二次世界大戦中の不充分な補修で荒廃した道は、「日本にあるのは道路予定地ばかり」とまで言われ、その後はアスファルトやコンクリートによる自動車時代に対応した舗装が普及していきます。
 
Q 明治時代には「有料道路」はありましたか?
A 明治時代になり、地方の発展のために交通網の充実が図られます。
しかし、江戸から明治へと移る明治維新の混乱や未発達な産業・税制など交通網の整備を取り巻く環境は良いものではありませんでした。このため、少しでも早く交通網を整備する手段として「有料道路」がつくられるようになりました。
明治4年(1871年)12月に太政官より個人や会社組織によって道路を造ったり橋梁を架けるなど交通の便利を向上させた者に費用(通行料)を徴収して良いとの布告がだされます。この布告により各地に「有料道路」が造られましたが、通行料を全ての通行者から徴収していたと思われ、後日軍隊や郵便配達夫などからは通行料の徴収を禁じる布告が出されます。これらの「有料道路」は大正9年(1919年)の「道路法」公布にともない公共の道になり無料化されました。
 
Q 江戸時代には「有料道路」はありましたか?
A 江戸時代には現在の高速道路のようなある区間を通行料を払った者のみ通行させる「有料道路」はありませんが、橋の維持費や架け替えの費用をまかなうために通行料を徴収している橋がありました。当時の浮世絵の中には「橋銭いらず」なとどかかれた絵も残され、通行料(橋銭)が旅人の関心事であったことがうかがわれます。また、橋だけでなく、現存する最古の道路トンネルといわれる「青の洞門」も通行料を徴収していたと伝えられます。
 
Q 昭和の初め頃の「有料道路」はどのようなものでしたか?
A 大正から昭和初めにかけて自動車が増えてきたこと、道路の整備が遅れていることなどから日本各地で自動車専用道路が「有料道路」として観光用やバスなどのために民間などによって造られます。この「有料道路」に対応した法整備がなされないままでしたので、これらの「有料道路」は明治4年(1871年)の太政官布告や道路運送法を根拠としていました。
このことから昭和6年に「自動車交通事業法」が制定されました。この「自動車交通事業法」では自動車専用道として「有料道路」を認めるととともに道路を「事業(営利)」として経営することを認めています。このことから「有料道路(自動車専用道路)」は道路法上の「道路(無料・公共)」としては解釈されていませんでした。
 
Q 「高速道路」はいつ頃から計画されましたか?
A 現在の「高速道路」のように自動車が高速で走り大都市間を結ぶ専用道路は昭和10年代から計画されています。この自動車国道は東京〜大阪〜福岡を11時間で結ぶ計画で、最高速度60マイル(約96km)、幅員20m、鉄道・道路とは立体交差しコンクリート舗装を施した自動車専用道路を約四億円(当時)かけて新設する計画でした。
また、同時期に東京の交通緩和と産業の発展を目的に高速自動車専用道路が計画されています。こちらは時速50マイル(約80km)、幅員12mの高架式道路を放射式に6路線建設し、環状道路等で連絡するという計画でした。
これらの高速自動車専用道路の計画は第二次世界大戦により中断し、実際に高速道路が整備されるのは昭和32年(1957年)に「高速自動車国道法」が制定されてからであり、昭和38年(1963年)7月15日に最初の長距離高速道路である名神高速道路が開通しました。
 
   
Q 北九州には重要文化財となった道路の橋はありますか?
A 平成18年12月に北九州市八幡東区の河内貯水池に架かる「南河内橋」が重要文化財に指定されました。
「南河内橋」(橋長133m・幅員3.5m)は、日本では唯一現存するレンティキュラートラス橋で、その姿から「めがね橋」「魚形橋」と呼ばれ、大正15年(1926年)に官営八幡製鉄所が建設した橋であり、また、独特な構造の橋として歴史的価値が高いものとして指定を受けました。
南河内橋

「南河内橋」


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