035 江後口(えごぐち) 綾町
綾盆地南部の綾南川(本庄川)にかかる三本松橋のやや下流右岸の地名。かつては淀(よど)んだ入江で、大水の時などは釣りや網すくいで面白いように魚がとれたという。エゴは川水でけずり取られた谷の窪(くぼ)みや、袋状の入江のことで、江後口は袋状の淀んだ入江の出入り口の意味である。なお、三本松はかつて江後口南部の小高い所に3本の松の大木があったので起こった地名である。


036 江佐原(えさばる) 宮崎市
江佐原の江佐は餌(えさ)からきたのではないかと思われる。江佐原の1キロメートルほど東に蛎原(かきわら)という集落があり招餌大明神(おきえだいみょうじん)が祭ってある。招餌(おきえ)とは鷹(たか)などを招(まね)きよせる餌(えさ)をいう。江佐原と蛎原の間は寛文2年(1662)の大地震で陥没(かんぼつ)し入り江となった所で、水鳥や鷹などが多く棲息(せいそく)していたと考えられる。権力者へ献上する鷹を獲(と)ったことにちなむ地名と思われる。

大地震 寛文2年(1662)、宮崎県沖を震源とするマグニチュード7.6の地震が発生し、大津波によって加江田あたりの周囲7里35町が海底に没した。



037 えべすけ溝(えびすけみぞ) 国富町
昔、綾北川と綾南川が合流して平城の崖をけずり深い淵(ふち)ができた。ある時、この岸にりっぱな恵比寿(えびす)様の木像が流れついたので、村人たちは祠(ほこら)を作り祭った。いつしか淵は浅くなり、大きな池になった。村では「えべすけ」と呼んで、子どもたちは水浴びをしたり、大人は農機具や牛馬を洗ったりした。その下流の「えべすけ溝」は金竹(タケ)の根が張って大きなフナやコイ、ナマズの隠れ場所になり、大水が出ても、田んぼが流されることはなかったという。
中央の祠にえびす(田の神)様



038 江平(えひら) 宮崎市 
現在の江平小学校・宮崎西中学校の地は昭和初期までは江平池があり、西池小学校の地には昭和30年頃までは(江平)西池があった。この二つの池はかつての大淀川が流れていた跡であり、いわゆる河跡湖(かせきこ)を利用した溜池(ためいけ)だった。かつての川(江)が平らに、つまり土地になった地が江平であり、まさに大淀川の流れの跡を現在に残す地名である。

河跡湖(かせきこ) 川の中流や下流で流れが蛇行して変化すると、本流から取り残された川の一部は、孤立して三ヵ月形の池になる。このような地形を河跡湖、三ヵ月湖などという。



039 江平(えひら) 都城市高崎町 
木下川、炭床川流域を江平という。江平は、大淀川の流域で広々とした平地状の台地が散在することから起こった地名という。川沿いは水田が広がり、台地は畑作が多く、谷間に湧き水のある湿地も多く、畜産も盛んである。地域内の前原には、西・北諸県郡内では最大の前方後円墳(県指定)などの高崎古墳群があり、町の古墳祀(こふんさい)も毎年続けられている。明治後期に創建された善長寺周辺に農協や郵便局があり江平の中心地である。

墳祀(こふんさい) 古墳のお祓(はら)いとお祈り。
高崎古墳

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