231 法華嶽(ほけだけ) 国富町 
「法華経」はお経の中の一つの略称、法華嶽は寺域と周辺の山や村落を含めて言う。霊山ということから、この名が出たと思われる。
古くから法華嶽薬師寺は日本三薬師の一つとして、日本国中の人々の信仰を得て、中世にこの地一円を支配した伊東氏や島津氏の庇護(ひご)を受け、広大な寺内に御堂、宿坊、三重塔、鐘楼、山門などをいくつも備え、栄華を誇っていた。平安中期の女性歌人和泉式部(いずみしきぶ)がこの寺で修業して難病を治したという伝説がある。
法華嶽薬師寺の参道



232 細野(ほその) 小林市 
火山の噴火によって、裾野(すその)に作られた段丘に挟(はさ)まれた、低地の細い野原という地形からきたものと考えられる。細野、長野、野尻など、自然の地形に関連する地名は多い。



233 穂満坊(ほまんぼう) 都城市高城町 
大井手井堰、松山池、中池を水源とする大淀川に近い一帯で、水田面積は高城郷内で最も広く「ほまんたんぼ」といわれてきた。穂満坊の地名もこの田んぼにちなんだ名で、稲が豊かにみのるようにと願って近世以降に使われるようになった当て字だといわれている。
穂満田んぼを見守る田の神



234 本郷南方・北方(ほんごうみなみかた・きたかた) 宮崎市 
本郷とは郷の一部で最初に開け、付近の発展の基礎になった土地で本村(もとむら)ともいう。本郷の地名は古く、鎌倉時代初期、建久8年(1197)に作られた土地台帳『建久図田帳(けんきゅうずでんちょう)』にある八条女院領国富庄の本郷に由来する。国富庄は、北に新田、佐土原、那珂、穂北などの児湯郡と南に左右恒久、田吉、加納、国富本郷、熊野などの宮崎郡があり、国富本郷は土持太郎宣綱(つちもちたろうのぶつな)という人物が治めていた。
国富本郷は地理的に国富庄の中心部にあり本郷の地名が付いたものと思われる。後に国富本郷は本郷北方、本郷南方、郡司分に分かれた。


235 本庄(ほんじょう) 国富町 
本庄は古くから交通の便も良く、古代の古墳などが町の中に多く残っている。荘園の中でも中心地で、人も多く集まったので本庄と呼んだ。江戸時代に幕府は本庄などを幕府領(天領)にした。九州の天領を治める代官所は大分県日田にあり、日向(宮崎県)を治める役所は日向市富高(とみたか)にあった。そこから手代が本庄にある「仮屋」と呼ばれる役所に来て、年貢などの用務を済ませていた。本庄は殿様がいなくて、庄屋と町の年寄りの手で運営されていた。
本庄は古墳の町である



236 本庄稲荷町(ほんじょういなりちょう) 国富町 
この神社は本庄古墳群の第38号「剱ノ柄古墳(けんのつかこふん)」の上に建てられている。ここに古墳が造られた後に、神話に出てくる神々が祭られたと由緒に書かれている。その後、稲の豊作を願う稲荷信仰が本庄商人などを中心に広がり、この地を稲荷町と呼ぶようになり、たいへんにぎわった。旧暦2月の初午(はつうま)の日にある縁日に、杉の小枝を挿し木にする風習があり、植木市が始まったといわれている。
樹木の茂った稲荷の境内

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