056 梶山(かじやま) 三股町
戦国時代から見える地名で当時は加治山とも書いた。しかし、「かじやま」の名の起こりは明らかではない。梶山城は戦国時代の山城で、もとは樺山氏(かばやまし)の居城だったが、応永元年(1394)高城城主・和田正覚(わだしょうかく)と花木城主・高木久家(たかぎひさいえ)が守っていた時、伊東、今川、北原の連合軍に攻められた。その時都城の北郷義久は、和田正覚を助けるため三男久秀(ひさひで)と四男忠通(ただみち)を梶山へ向かわせた。しかし敵の大軍のため兄弟ともに討死した。のちに義久はこの地へ大昌寺を建てて弔(とむら)った。北郷久秀・忠通の五輪塔(ごりんとう)が並んで建っている。梶山小学校はこの近くにある。

五輪塔(ごりんとう) 形の異なる石を積み上げた塔。下から四角(地輪)、円(水輪)、三角(火輪)、半月(風輪)、宝珠(空輪)。密教では五つの形は、地・水・火・風・空の宇宙構成要素を表す。
北郷久秀、忠通の墓



057 柏田(かしわだ) 宮崎市
瓜生野村の旧大字(あざ)であるが、元来は大淀川左岸で相生橋北詰(きたづめ)の直純寺(じきじゅんじ)周辺の台地に付けられた字(あざ)名である。天孫降臨(てんそんこうりん)の地である「笠狭(かささ)」が柏田に転訛(てんか)した説もある。その真偽はともかく、柏(=樫)には堅い木の意味もあり、多くは自然堤防や崖を意味する。地名では語調をよくするために「田」を用いることがあり、「田」があっても必ずしも田んぼを意味するとは限らない。
相生橋と直純寺のある台地



058 春日(かすが) 都城市高城町
万寿3年(1026)ごろ太宰府(だざいふ)の役人だった平季基(たいらのすえもと)は島津荘(しまづしょう)を開き、関白(かんぱく)藤原頼通(よりみち)に献上(けんじょう)した。そこで藤原氏は氏神(うじがみ)である奈良の春日神社を三俣院の守り神様としてここに祭った。それ以後大井手(おおいで)のこのあたり一帯を春日というようになった。

太宰府(だざいふ) 約1300年前、当時の太宰府には九州全体を治める「大宰府」(オオミコトモチノツカサ)という大きな役所が置かれていた。
氏神(うじがみ) 血筋のつながった人々がその先祖として祭る神。
春日神社



059 勝岡(かつおか) 三股町
戦国時代から見える地名である。明応4年(1495)島津氏は三俣院(高城、山之口、勝岡など田畑約100ヘクタール)を伊東氏に譲(ゆず)った。勝岡城もその伊東8城の一つで、都城攻略(こうりゃく)を目指していた伊東氏にとっては都城に近い最も大事な城だったので、伊東尹祐(ただすけ)は家来の荒武三省(あらたけさんせい)に命じて城を改築(かいちく)させ、麓(ふもと)集落もできた。その後都城島津領となり、慶長19年(1614)には本藩が直接治める土地となり、勝岡郷として地頭館(じとうやかた)ができ、郷士(ごうし)屋敷跡も残されている。勝岡小学校が城跡下にある。
勝岡は城を造るのにふさわしい地名であるが、その起こりは明らかでない。

郷士(ごうし) 江戸時代に藩の防備のために置いた在郷武士。日頃は自分の土地を耕作していた。
勝岡城跡



060 合戦原(かっせんばる) 宮崎市 
天文10年(1541)、長嶺城主・長倉能登守(ながみねじょうしゅ・ながくらのとのかみ)は、兄の穆佐城主・長倉上総介(むかさじょう・しゅながくらかずさのすけ)とともに、伊東義祐(いとうよしすけ)に謀叛(むほん)を起こしたが討ち死(うちじ)にしたという。その戦があった所を合戦原というようになったと伝える。
大坪町には合戦原のほかに迫合戦原(さこかっせんばる)、加瀬原(かせばる)がある。椎葉村大河内に合戦原(かせばる)という所がある。
大坪町の加瀬原と同じ読み方である。ただ、合戦(かせ)には鹿瀬、笠、加瀬、忰などの文字を当てて、岸とか川ばた、痩(や)せる、痩(や)せ地の意味もある。単に合戦伝承地ということだけでなく椎葉村や大坪町の同名地の地形から痩(や)せ地ということも十分考えられる。


061 蟹町(がにまち) 宮崎市 
大淀川が一ツ葉入江へと大きく左に曲がる一帯の地名で、戦前の5万分の1地図にも記載されている。地元の人々は「かつて蟹がたくさんいたから蟹町」という。しかし水路が市内にたくさんあった時代には、各地に川蟹はたくさん生息しており、この地だけに蟹が多かったわけではない。地名学的には「カニ」は曲尺(かねじゃく)と同じで「曲がった」の意味であり、蟹股(がにまた)も同様である。
戦前の5万分の1地図



062 金崎(かねざき) 宮崎市
金崎神社背後の山を霧島山というが、古くは金之山もしくは大崎山といった。そのため地元では前者の「金」と後者の「崎」をとって金崎となったとの説がある。地名学的には「金(かね)」は、砂鉄に関することや曲がった地形に付けられることが多い。金崎は、大淀川と本庄川に挟(はさ)まれるいわゆる倉岡郷という曲がった土地の先(=崎)に位置している。
金崎周辺



063 樺山(かばやま) 三股町 
鎌倉時代からある地名である。南北朝時代の正平6年(1531)島津氏4代忠宗の4男島津資久(すけひさ)が、樺山に来て樺山姓を名乗り樺山城を宮田地の東に築いた。城跡は現在「上米公園」となっており、その最奥に「樺山城跡」の石碑がある。しかし樺山城は山城ではあるが堅固ではなかったので、資久はすぐに梶山城を築きそこに移った。年見川に近い中米満(なかよねみつ)に「樺山どんの墓」といわれる墓石が残っている。樺山は三股の中央地区で、三股小学校もこの地区にある。樺山・梶山などの地名は、樹木に関係のある地名かも知れない。
樺山城跡(上米公園)



064 蒲牟田(かまむた) 高原町 
牟田というのは湿田のことである。湿田の多い所で、そこにガマ(蒲)のような植物が生えたので、この名称が起こったのであろう。霧島山地の麓には、伏流水(ふくりゅうすい)が山麓(さんろく)部に湧き出るので湿田が各地にある。土地の状況から出た地名である。


065 上北方(かみきたかた) 宮崎市 
下北方と瓜生野の間に位置する旧大字(あざ)で、瓜生野村に属していた。勅使が来たので、上官・下官が来たことからそれぞれ「上北方・下北方」となった説や天孫降臨(てんそんこうりん)の際に多くの「神々が来た→かみきた→上北」説がある。しかし、現実的に北方を下北方と上北方に分けた理由は、大淀川沿いの上流と下流の地で区別したものと思われる。

勅使 天皇の命令を伝える使者。



066 上倉・下倉(かみくら・しもくら) 宮崎市高岡町
江戸時代の末ごろ、倉永村が上・下の2か村に分かれてできた地名である。あわせて倉永地区と呼ばれている。この地区は昔から穀倉地帯(こくそうちたい)として栄え、今でも広大な農地が広がっている。倉(くら)は蔵(くら)で米蔵(こめぐら)を意味する。米作りの盛んなこの地方には米をたくわえる倉庫がたくさん見られたのだろう。
下倉地域



067 上長飯(かみながえ) 都城市  
ながえは長江のことであり、江は水の集まる所である。この辺りは、東岳に降り注いだ雨が伏水となり地下を通って湧き出し,それが長池となり流れ出して姫城川になったと考えられる。この川を長江と呼び、上流を上長江,下流を下長江と呼ぶようになった。いつから江が飯となったかは明らかでないが、村名になってから飯「え」と書き表している。上長飯小学校近くの小鷹神社(こだかじんじゃ)は、昔から上長飯村の鎮守(ちんじゅ)として敬(うやま)われている。

鎮守(ちんじゅ) 地域の災害から人々を守る神。
小鷹神社



068 上野町(かみのまち) 宮崎市 
1662年の地震で、大淀川河口付近左岸の下別府村にあった小戸神社は水没したために、上別府村へと遷(うつ)し、その地を上野町と称したとされる。元来の上野町は川原町に連続し、橘通りをまたいで約400メートル大淀川に沿って存在していた。上(高い)の土地というよりも、小戸神社が水没を避けて大淀川上流の土地に遷(うつ)したことから単純に「上流の町→上ノ町→上野町」と称したと思われる。


069 上別府(かみべっぷ・かみのびゅう) 宮崎市 
現在の宮崎市の中心市街地とほぼ同じ地域の呼び名で、藩政時代から村の名前として、明治22年以後は大字(あざ)として昭和2年まで存在した。別府(=別符)とは本来の荘園ではなく、別に許可(=符)を与えられた開墾地のことで、同地は当初は小戸別府、やがて渡別府と呼ばれた。宮崎では別府を「びゅう」と発音するが、九州各地では「びゅ、べふ、びょ」など様々である。


070 紙屋(かみや) 野尻町 
元は神谷(こうや)氏から起こり、豊後国(ぶんごのくに)の流れを汲(く)む緒方氏が移住し、紙屋と号したので紙屋となった。
紙屋小学校の近くに紙屋関所跡の碑がある。紙屋関所は薩摩藩9ヵ関の一つとして重視されていた。ここは宮崎方面の天領に備えたもので、犬1匹でも通すのに通行手形が必要だったといわれている。

天領 天下人(将軍)の領地という意味で、幕府が直接治める領地。
紙屋関所跡


071 唐崎(からさき) 宮崎市高岡町
大淀川の急流が山下から直角に東に折れ、直ちに西へと流れを変え、ついにはそこから蛇行を繰(く)り返すその先端に位置している。そのため、小石が多くいわゆる唐州(からす)といわれる場所の突端に位置していたので、唐崎と言われている。唐州の先という意味である。
唐崎の唐州


072 仮屋(かりや) 宮崎市
宮の馬場(跡江)の西端にある。江戸時代、跡江は延岡藩・内藤氏の所領だった。延岡から遠く離れた飛び地だったので下北(宮崎市)の代官がこの地方を治めた。年貢を集める時期に代官は跡江に出向いたという。そのとき泊(と)まった所が仮屋で、後にそれが地名になったと伝えられている。


073 仮屋(かりや) 都城市高崎町 
仮屋の地名は、地区内の地頭仮屋の史跡に関係する。前田迫川の南西を通る国道には 仮屋橋が架かっている。島津本藩の外城(とじょう)時代、高崎郷を治めていた地頭は高崎に年中駐在することなく、郷の三役たちが代役をしたので本藩の掛け持ち地頭であったから仮屋といった。地頭屋敷跡は狭い空き地になり、標柱も文字が欠け史跡としては改善が必要であろう。
地頭仮屋跡



074 川口(かわぐち) 宮崎市高岡町 
川の流れ込む所に出来る地名。浦之名川(うらのみょうがわ)が大淀川に合流する所に、川口の地名がある。浦之名川は須木に源を発し本流大淀川に注ぐ一級河川。流域に谷底平野は見られず、わずかに須木の小平野をのぞいてはほとんどが深いV字谷である。
川口バス停



075 川中(かわなか) 綾町南俣
綾町中心部(役場)から西へ主要地方道宮崎須木線を約15キロメートルさかのぼった所の、川中キャンプ場あたりの山地の地名。川中は川上や川下に対して綾南川(本庄川)の中流域の意味。川中キャンプ場から山道を約1キロメートル登った所に川中神社があり、阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)が安置されている。南側の斜面には綾町の梅の名所・川中梅林がある。
綾町南俣の川中神社


076 川端(かわばた) 宮崎市 
大淀川左岸上北方の「大淀川学習館・里山の楽校」より上流側、県道宮崎須木線沿いの地名で上北方の字(あざ)名である。川端は文字のごとく川の横(端)の土地の意味であり、低地帯と考えがちである。しかし、地名学的には端(はた)は発音が同じ「畑(はた)」の意味もあり、自然堤防などでできた小高い土地も含むことがある。同地にでは「里山の楽校」から上流に連続する丘陵地も含んだ地名である。

「大淀川学習館・里山の楽校」は、自然観察・自然体験や環境教育など大淀川の自然を広く学習・体験でき、子どもも大人も楽しめる施設。そのすぐ隣に里山の復元をめざし、森と水と人との関係を学ぶ「里山の楽校」がある。
自然堤防川が洪水になって溢れると、多量の土砂を河道の両側に堆積する。それらの土砂は、長い間に河道に沿って堤防状の地形を造る。
 このようにして出来た川沿いの地形を、自然堤防という。平地に住む人々は、自然堤防に居住してきたが、現代では自然堤防より河道に近い低地まで、堤防を造成して宅地として利用するようになっている。



077 河骨(かわほね) 宮崎市高岡町 
永享4年(1432)6月島津忠国(ただくに)の軍は、都於郡(とのこおりぐん)六野原で伊東祐立(すけはる)の軍と戦って、内山に退いた。7月14日両軍河骨(かわほね)に戦って薩摩軍は大敗した。このとき飯田川は、両軍の戦死者で埋められたという。それ以来、この場所は河骨といわれている。
河骨



078 川原町(かわらまち) 宮崎市 
かつては上野町、大工町とともに上別府村の字(あざ)地であったが、明治8年(1875)に分離独立し、現在に至っている。川原とは、水が流れていなくて砂や石が表面に出ている所をいう。大淀川左岸において小島・松山・瀬頭に連続する川沿いの土地で、地名学的には浅瀬を意味する瀬頭よりも高地帯で、松山よりも低地帯であったと考えられる。


079 観音瀧(かんのんだき) 小林市須木
ままこ〈継子〉滝とも言われる。江戸時代に書かれた『三国名勝図会』にも「須木瀑布(すきのたき)」として見事な木版画が載(の)っている。昔から須木を代表する名勝で、昭和8年(1933)には県の名勝に指定された。かつては53メートルの高さから落下していた瀧(たき)も、戦後昭和の小野ダム完成によって、その瀧は高さが低くなりみすぼらしい瀧となった。瀧の上に観音像(かんのんぞう)が置かれているところから、観音瀧と名付けられたといわれる
『三国名勝図会』に描かれた観音瀧

ままこ滝伝説
かつて、ある山師の嫁(よめ)が亡くなった。この山師には女の子がひとりおり、山師は後妻(ごさい)を迎えたが、この女の子にとっての継母(ままはは)は、だんだん女の子にいじわるをするようになり、女の子はつらい日々を送っていた。あるとき、瀧の上に遊びに行こうと母から誘われた女の子は、うれしさに、いつの間にかひもで継母と自分の着物を結んでいた。それとは知らぬ継母は、ころあいをみて瀧の上から女の子を突き落とした。着物は、ひもで結ばれていたから、継母も女の子もろとも谷底に落ちて、還(かえ)らぬ人となったという。後世人々は、継子瀧(ままこだき)と呼んで女の子の冥福(めいふく)を祈ったといわれている。

山師 山の立木の売り買いや鉱山の採掘事業を経営する人。山主や山で仕事をする人を指す場合もある。
観音瀧(ままこ滝)



080 勘場(かんば) 国富町 
勘定場が詰まって地名になった事例。昔は道路が整備できず、水運に頼って人や物が運ばれることが多かった。各川筋の船着場で人・物が舟に乗せられ、決められた運賃、代金が支払われ、不審な人物、品物があれば番所で調べられるよう決められていた。本庄川では淵脇勘場、榎瀬勘場、吉野勘場、三名川では宮本勘場、大田原勘場などがあり、これらの地域の特産品を宮崎、赤江方面に送り、宮崎と関西方面では盛んな取り引きがあった。
本庄橋の右手あたりが勘場跡



081 観音瀬(かんのんぜ) 都城市高城町 
観音瀬はよく知られた名所であるが、名前の由来は定かではない。広大な都城盆地の水を1ヵ所に集め漏斗口(ろうとぐち)のように吐(は)き出す所である。ここは滝(たき)になっており、急流で眺めもよい。観音瀬という名称(めいしょう)は江戸時代以前からのものと思われる。また、高崎側に昭和13年(1938)のダム建設のころ中国から持ち帰ったという仏像を祭った石の祠(ほこら)堂がある。(これはダム工事で亡くなった人を供養するための祠(ほこら)堂で、中国の当時の奉天から持ち帰ったもので、地名とは関係ない。)
都城領主島津久倫(ひさとも)は、ここを開削(かいさく)して舟の通る水路を開こうとした。家来の藤崎五百治公寛(いおじきみひろ)に命じて、寛政3年(1791)に着工し、同6年完成した。その後明治22年(1889)から2年間の県営工事でさらに右岸側に幅約2メートル、長さ約100メートルの水路を開削した。しかし、大正13年(1924)電気工業株式会社がこの観音瀬に水力発電のための堰堤(えんてい)を造った。それ以後上流の水田地帯は台風や大雨のたびに大被害を受けた。昭和36年(1961)約4キロメートル下流に新設ダム完工。轟ダムは撤去(てっきょ)され、昔の開削あとが見られるようになった。平成17年2月県指定史跡として指定された。
手前 寛政水路・後 明治水路の開削跡

観音瀬開通と藤崎公寛
開通の当日、藤崎公寛(ふじさききみひろ)は、早瀬船(はやせぶね)が荷を積んで下っていく姿を岩の上で裃(かみしも)姿で刀を差して正座して待った。岩に当たって舟が沈んだら、その場で切腹して責任をとる覚悟であった。
船頭の櫓(ろ)さばきや竿(さお)の操り方一つで、無事に川下へ下っていく舟を見届けることができ、皆は大いに喜び合った。

早瀬船(はやせぶね) 流れの速い川で使用する幅の狭い舟。

轟(とどろ)ダムによる洪水被害と撤去(てっきょ)運動 
大正13年(1924)に、民間の電気工業会社が、大淀川の観音瀬(轟)下流に堰堤(えんてい)を造り、高崎側に発電用の導水路(どうすいろ)を設置して、笛水の前山に発電所が建設された。しかし、その後ダムの上流地域では、大雨などによる大洪水がしばしば起こるようになり、轟(とどろ)ダムが原因ではないかと大問題になり、高崎町はじめ周辺の町村でダムの撤去運動が県もまきこんで盛んになった。その結果、昭和36年(1961)話し合いにより轟ダムは撤去され、翌年轟ダム跡記念碑が川岸に建立された。その後、昭和42年(1967)、下流に岩瀬ダムと大淀川第一発電所が建設されたが、この時、笛水の椎屋地区はダムの中に水没し住民は各地に移住した。
昭和36年に撤去された轟ダム

堰堤(えんてい) 水流をせきとめるコンクリ一トの堤。

トップへホームへ