040 皇子原(おうじばる) 高原町
狭野神社(さのじんじゃ)の背後の小高い台地。ここに二つ並び立つ石がある所を、神武天皇の降誕地(こうたんち)であると伝承している。皇子が生まれた所であるから皇子原という。二つ並び立つものは、二上山、二見ヶ浦のように、イザナキ・イザナミ二神にたとえられて、神の霊地(れいち)として信仰されている所が多い。
皇子原



041 大井手(おおいで) 都城市高城町
大井手の地名は、暦応2年(1339)の軍忠状(ぐんちゅうじょう)に「大井手御陣」という文字が見えるが、もっと古く三俣院が開かれた平安時代のころからの地名だと思われる。日和城(ひわじょう)前の水田には大量の水が必要であった。そこで東岳川(ひがしだけがわ)に大きな井堰(いぜき)を造り、水を引いたのが地名の起こりで、昔は井堰を井手(いで)といっていた。

軍忠状(ぐんちゅうじょう) 鎌倉時代から戦国時代にかけて戦いに参加した武士が功をたてた証拠としたもの。
井堰(いぜき) 川を横切るように「かべ」を造り、せき止めた水を水田へ引き込むためのもの。
東岳川と大井手地区の水田



042 大岩田(おおいわだ) 都城市
都島町と大淀川を挟(はさ)んだ大岩田集落は、かって「大祝い田」といわれ、上層階級の人たちの祝い田であったという。後に大岩田と書き表すようになった。武門の家が多かったというが、国道10号と国道269号の交差する鹿児島方面の交通の要所であり、鹿児島方面に対する防備の要(かなめ)であったと思われる。現在も都城警察署大岩田検問所(けんもんしょ)が設置されている。
大岩田検問所



043 大瀬町(おおせまち・おおぜまち) 宮崎市
本庄川と大淀川の二つの川が直線的にぶつかる所で、堤防が造られる前は「瀬」であったと思われる。大瀬は大きな瀬もしくは早い流れの瀬という意味であり、地名の由来に相当する。正式には「おおせまち」であるが、地元では「おおぜまち」と濁(にご)る。明治32(1899)年の『日向案内記』に「柏田及び大瀬町は戸数多からされとも相応の商業ある市街なり」とあり、郡部ではあるが商業者が住んでいたので「まち」であった。


044 太田(おおた) 宮崎市
太田、大田、太駄は大きな田という意味で、田畑の面積を計る太閤検地(たいこうけんち)以前1反の3分の2以上の広さの田を大田といった。大淀川下流右岸の太田は、鎌倉幕府が建久8年(1197)に作らせた土地台帳である『建久図田帳』(けんきゅうずでんちょう)には「大田100町」とあり、昔から広い水田があったことが分かる。現在は商店や住宅が立ち並び広い水田は見られない。

太閤検地(たいこうけんち) 豊臣秀吉が全国的に行った検知。統一した基準を用いた。この検知で石高制が確立した。
太田観音堂



045 大塚(おおつか) 宮崎市
古くは大墓(おおつか)といわれていた。塚(つか)は束とか津賀などと書き、意味は土など高く盛り上げて造った墓とか古墳をいう。明治初期、大塚には古墳が約50基あった。昭和12年(1937)には前方後円墳3基、円墳3基、横穴墓1基があり県の史跡に指定されている。つまり、古墳がたくさんある所という意味で大墓、大塚という地名が付いた。
大塚八幡神社



046 大坪(おおつぼ) 宮崎市
坪とは田の一画、古代条里制(こだいじょうりせい)における小区画などをいう。田の区画が多くあったので大を付けて大坪となったと思われる。中世の土地の広さの単位「せまち(畝町)」が多くあるということで大畝町(おおせまち)となった所もある。大坪も大畝町も同じ意味の地名ということができる。

古代条里制(こだいじょうりせい) 日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度。ある範囲の土地を約109m間隔で直角に交わる平行線により正方形に区分するという特徴がある。



047 大橋(おおはし) 宮崎市
昭和48年から現在に至る町名で1〜3丁目がある。昭和32年に架設(かせつ)された宮崎大橋につながる国道10号北側に接することから起こった名称。しかし、大淀川下流域には昭和46年に大淀大橋が架設されており、大橋があるのは同地だけではなかった。昭和56年に一ツ葉大橋、平成9年に平和台大橋が架設されているが、大橋と橋の違いは橋の長さや幅、語呂(ごろ)などで決定される。

語呂(ごろ) 言葉のひびきが良いこと。
宮崎大橋



048 大牟田(おおむた) 都城市高崎町
高崎川の中流域に位置し、国道221号が区域の中央を縦断する。高崎川流域の各地に広い水田があり、谷間の水田も古くから開発されていた。牟田とは湿田のことであり、大は広いことを意味するので、大牟田の地名が付いたという。牟田の付く地名では、都城の牟田町や高原町の蒲牟田も似たような環境だったといえる。高崎町内でもっとも田畑の広い所であり、農業の中心地であるといえよう。大牟田総合運動公園も整備され、「たちばな天文台」もある。
農業が盛んな大牟田地区



049 沖水(おきみず) 都城市
大淀川の支流に沖水川がある。太古時代から川の流れが変化し、川が洪水の時、水があふれて沖のように見えたことから沖水というようになったという。以前は、暴れ川としてしばしば大洪水が生じたという。その後、河川の改修や堤防の整備で水流も安定し、両岸には田畑や人家が広がっていった。
沖水支所付近



050 御城下(おしろした) 宮崎市
曾井城跡(そいじょうせき)の北に御城下という地名がある。字(あざ)図では御城下とあり、字(あざ)名一覧では御城方(おしろかた)となっているが、どちらにしても曾井城にちなむ地名であることは明らかである。曾井城は伊東氏の支族・曾井祐善(そいすけよし)が築城したと伝えられるがその年月は不明。中世には鹿児島の島津氏と日向の伊東氏が争奪(そうだつ)をくり返したが、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定で功績のあった伊東祐兵(いとうすけたけ)が曾井城を与えられたので、再び伊東氏の領有になった。
御城下と曾井城跡



051 落水(おちみず) 国富町
塚原(つかはら)台地の南側の道路沿いに集落があり、その付近を落水(おてみず)ともいう。昔は人家もなく、山法師(やまぼうし)の修業の地であったという。斜面の中腹に神社があり、その真下あたりから湧き水が落下していた。木脇赤池の祭礼の時など、神馬、神司、関係役員がそろってお清めのために参拝された。このお清めを「潮かかり」といった。ここから少し東に行くと、「浜向」(はまんこう)という字(あざ)名がある。この先の北東側の県道の上にある神社は、目の前に三つの島があるので、三島神社と呼ぶようになったと言われている。

山法師(やまぼうし) 野や山で修行をする僧。本来は延暦寺の僧兵をいうが、山伏や修験者と同じような意味。
落水(おちみず)右手奥が浜向



052 小戸町(おどちょう) 宮崎市
昭和26年頃に誕生した町名で、元来の「小戸の橘(たちばな)」に由来すると思われる地名である。現在、同じ「小戸」という名の「小戸神社」は鶴島3丁目にあるが、元は大淀川下流左岸にあり下別府村に鎮座(ちんざ)していた。つまり神話伝説の「小戸」の地は、元来大淀川下流左岸とされており、小戸町がその地に復活したのかも知れない。
小戸神社
現在、大淀川下流左岸に水門の神として鎮座する松熊神社



053 小戸の橘(おどのたちばな) 神話地名
イザナキノミコトが「みそぎはらい」を行ったという神話から出た地名で、『古事記』には「日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」、『日本書紀』には「日向の小戸の橘の檍原」と記されている。かつて宮崎の人々はこの地が大淀川河口付近左岸にあったと信じて止(や)まなかった。門も戸も「と」であり「小さな門・水門」を意味し、橘は「断鼻(たちばな)」の当て字で「台地・自然堤防の崖」などの意味もある。神話の「橘」は地名をかざる言葉でもある。

『古事記』 奈良時代初めに作られた。天皇家に伝わる神話と歴史伝説をまとめた本。日本書紀とともに「記・紀」と呼ばれ、歴史の研究には不可欠の書。

みそぎはらえ
「国生み」神話で、イザナキが黄泉国(よみのくに)までイザナミを訪ねて行くが、あまりに醜(みにく)い姿を見て、おどろいて逃げ帰り、けがれを落とすために「みそぎ」をした、とある。
阿波岐原にある江田神社



054 表馬場・下馬場(おもてばば・しものばば) 宮崎市
倉岡城が近くにあるので馬術の鍛錬場があったと思われる。倉岡城は大淀川左岸に独立した丘陵を城取りしたもので、高さ40メートル、東は川に臨み、南・西・北は水田をめぐらしている。いつ造られたかは不明、応永年間(1394〜1428)には島津久豊がいたが、永禄年間(1558〜1570)には伊東氏の48城の一つになっている。天正5年(1577)伊東氏が豊後へ落ちた後からは再び島津氏の城となった。大淀川の対岸には白糸城があった。

城取り 地形を生かして城を造ること。



055 小山田(おやまだ) 宮崎市高岡町 
山田という地名は各地にあって、その数は何百に及ぶといわれている。それらは文字通り、山の間の田という意味がある。ただ祭神関係の地名もあるという。例えば鹿児島神宮の鎮座地(ちんざち)の内山田・伊勢神宮の宇治山田など。ここの「おやまだ」も穆佐神社(八幡宮)との関わりが考えられる。もともと穆佐郷(むかさごう)の郷社で尊崇(そんすう)の中心であったから神田(しんでん)が広がり、それを御山田(おやまだ)と呼び、小山田と表記したのではないか。
穆佐神社



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