138 瀬頭(せがしら) 宮崎市 
イザナキノミコトがみそぎはらいをしようとした際に上瀬(かみつせ)は瀬速く、下瀬(しもつせ)は瀬弱く、そのために選んだ中瀬(なかつせ)の始まりということから、瀬頭となったとの説がある。「瀬」とは浅瀬のことで、歩いて渡れる水量の場所であり、上流で連続する川原町と比べると低い土地を意味している。この地から下流側が瀬の始まり(頭)ということから、瀬頭と呼ばれたのかも知れない。
干潮になると、川底の岩が露出する



139 関之尾(せきのお) 都城市 
滝で有名な関之尾は関之丘が正しいといわれる。今からおよそ2万5000年前に、鹿児島湾の奥にあった姶良火山群(あいらかざんぐん)が大噴火して、大量の火砕流(かさいりゅう)を噴出(ふんしゅつ)した。その最も大規模なものを「入戸火砕流」(いとかさいりゅう)という。この火砕流は県南部から鹿児島県を広くおおった。表面はシラス台地になっているが、下部は高熱の火砕流が溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)になり、関之尾の岩盤(がんばん)になっている。それが後に亀甲状(きっこうじょう)の甌穴(おうけつ)となり突端(とったん)は滝になった。そこで水の関所となったことから関之丘り、いつしか関之尾と書かれるようになったという。
水量豊かな庄内川の上流は江戸期から明治期にかけて、開削(かいさく)され、南前用水路や前田用水路の取水口もあり、今も活用されている。

入戸火砕流(いとかさいりゅう) 鹿児島県国分市入戸(現在霧島市重久)で発見されたので「入戸火砕流」(いとかさいりゅう)と呼ばれる。
関之尾滝

入戸火砕流(いとかさいりゅう)
激しい火山活動が起こると、火口から溶岩の破片、火山灰など膨大な噴出物が火山の斜面を流れ下ることがある。これを火砕流と呼ぶ(火山細砕流の略)。
今から約2万5000年前に、鹿児島湾の奥にあった姶良火山の大爆発によって噴出した火砕流を、入戸(いと)火砕流と呼ぶ。この時、地下のマグマが大量に噴出し、火砕流が南九州を広く覆った。この火砕流は多量の軽石を含んでいたので、堆積した火砕流の表層はシラス台地を形成し、底部は溶結凝灰岩となった。観音瀬の川底の岩盤は、この時に形成された溶結凝灰岩である。また、この火砕流の噴出によって、鹿児島湾の奥には巨大なカルデラが形成された。
姶良火山の大爆発は、地球上で1,000年に1回起こる程度の、稀(まれ)な大噴火であったとされていて、噴煙は地上数十キロメートルに達したと考えられている。地上付近は、高温の火山灰や軽石の混じった雲(熱雲)に覆われたので、地表の動植物も死滅して、南九州一帯は、軽石に覆われた一大砂漠に変じたと考えられる。

関之尾滝祭りにおける「朱杯(しゅはい)流し」の行事 都城市  
都城初代領主北郷資忠(すけただ)が、ツツジが満開の時ここで花見の宴(えん)を催し、領内一の美人のお雪に、お酒のお酌(しゃく)をさせていた。そこで、お雪はお酌のために甌穴(おうけつ)を跳(と)びこえようとした時、おならが出たのでそれを恥じて、朱塗りの盃(しゅぬりのさかずき)を持ったまま滝壺(たきつぼ)に身を投げて死んだという。それを悲しんだお雪の恋人は、日夜滝の上に来ては、お雪の名を呼んで泣き続けた。するとその思いが通じてか、毎年ツツジ満開の頃になると滝壺に朱塗りの盃(さかずき)が浮かぶと伝えられている。
今は毎年秋に行われる「関之尾滝祭り」の呼び物として、お雪にちなんだ数人の乙女が朱杯を滝の上で流す行事が催されている。
朱盃(しゅはい)流し


140 千丈(せんじょう) 宮崎市
千丈は天上という言葉が転じたもので高い所をさす。千丈は高いことを例えて千をつけたものである。また、千畳(せんじょう)や千城の文字をあて、小さな平地(千畳敷など)をさすこともある。さらに古戦場にちなんで戦場を付ける場合もある。
千丈は生目と大塚の境の丘陵にあり、高い所ということで千丈と名付けられたものと思われる。近くにある戦場坂は千丈にある坂ということも考えられる。
文政5年(1822)に清武の儒学者安井滄洲(じゅがくしゃやすいそうしゅう)は、高岡の月知梅(げっちばい)に行く途中にこの坂を通り千丈越と記している。
千 丈



141 戦場坂(せんじょうざか) 宮崎市
大塚と浮田の間に戦場坂という坂があり、『延陵世鑑』に「長寛2年(1164)源為朝(みなもとのためとも)が大隅・薩摩を攻め従えて日向に向かったので、土持信綱は蓬莱山(宮崎市大塚)に陣を構え、戦場坂で向かえ戦った」とある。また、『日向郷土事典』でも源為朝と土持氏が大塚で戦った古戦場跡と伝える。
文政5年(1822)に清武の儒学者安井滄洲(じゅがくしゃやすいそうしゅう)は高岡の月知梅を訪ねるとき戦場坂を通っている。「千丈越に休みて、梅が香に腰を掛けたる峠かな」(『梅見囃し』)と詠んで、千丈越と坂の名を書いている。近くに千丈という地名があるので、千丈の坂かも知れない。なお『日向地誌』には戦場越、千町越と記している。

『延陵世鑑』 「えんりょうよかがみ」「えんりょうせいかん」といわれる。延陵は延岡のことで、延岡の歴史という意味の本。
戦場坂



142 千町(せんちょう) 都城市 
南部はJR日豊線が走っている。以前早水池の湧き水が溢(あふ)れて、水流となりその下流の広大な湿地を千町牟田と呼んだという。牟田(むた)とは湿地のことである。その後狐や狸の住む荒れ地と化していたが、昭和4年(1929)東原耕地整理事業により住宅地に変わった。地域中央には大きな「東原住宅地整理記念碑」と、千町公民館内敷地にはその記念碑文が建てられている。
東原住宅地整理記念碑



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