136 須志田(すしだ) 国富町  
南北朝時代には呪師田名(じゅしだみょう)と呼ばれていたが、日向土持の一族に須志田某という者がいて、この地を須志田としたといわれている。中世のころ、大乗寺を建てることになり、伊東祐胤(いとうすけたね)は大光寺に田地一町歩と屋敷を寄進した。また後に当地から、米、布、筵(むしろ〜わらを編んで作ったシート〜)などが納められたことが『大光寺文書』に記入されている。江戸期初め頃宮崎市の奈古(なご)神社に残る文書に奈古神社と本庄八幡神社の例祭では須志田地区と森永地区が「やぶさみ」を奉納していたといわれている。

日向土持 土持氏は日向で最も古い豪族と言われている。
「やぶさみ」 本庄では「やぶさみ」というが、本来は「やぶさめ」である。
須志田から法華岳方面を見る



137 ズンブリ(ずんぶり) 宮崎市
大淀川河口右岸にあり、寛文2年(1662)の大地震による津波で村がズンブリ沈んだということで付いた地名。地名のもともとの意味はズブ、ズブズブに通じ「水にぬれた様子、湿地」をいう。
地震のあと、元禄5年(1692)幕府領となり吉村のあずかりとなり、元禄14年(1701)には吉村の庄屋清水清蔵がズンブリの請地を願って許可されている。請地とは一定の年貢を納めて開墾することである。明治初期の人家は4戸とある。津波の被害から200年後で4戸とは人が住めない沼地であったと思われる。



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