165 津蟹ヶ迫(つがにがさこ) 宮崎市
迫(さこ)とは狭(せま)く細く行き詰ったような谷、セコ(世古、瀬古)、サク(佐久、作)などと同じ意味。大淀川下流南部には30余りの「迫」のついた地名があり、その多くは里山の間に散在し、奥まった水田や平地、小谷である。津蟹(つがに)とは県内のほとんどで使われるモクズガニの方言で、津蟹ヶ迫はツガニが多く棲息(せいそく)していた迫が語源である。似たような地名に大蟹ヶ迫(おおかにがさこ)、蟹ヶ迫(かにがさこ)(郡司分)がある。迫田(大塚)や天ヶ迫など迫が付く地名は、大淀川下流右岸だけでも50ヵ所ほどある。


166 塚原(つかばる) 国富町 
大淀川から本庄川にさかのぼって、次の合流点の左岸が塚原である。台地の上には『日向地誌』に記されている塚原古墳群の古墳が12基並んでいる。最近、縄文期、弥生期の中期頃の環濠集落(かんごうしゅうらく)の跡が発掘され、住居跡やV字溝、墓跡や土器を始め、軽石造りの祭具などをもとに、古代の人々の生活の様子が解き明かされた。まさに「塚(古墳)の原」の地名のとおりである。

環濠集落(かんごうしゅうらく) 弥生時代の前期から中期にかけて多く、福岡の板付遺跡や佐賀の吉野ヶ里遺跡のように、二重三重に濠(ほり)をめぐらす大規模なものから一重のものまでさまざまな規模がある。
県内では、高鍋町の中尾遺跡や新富町の鐙(あぶみ)遺跡が知られている。
大規模な環濠集落の発達は、背後に戦争の時代があったことがうかがえる。
塚原古墳群 第11号墳



167 堤(つつみ) 小林市 
元禄時代(1688〜1704)には、温水(ぬくみず)村と呼ばれていたらしいが、それは南向きの日当たりのよい土地であったことから付いた地名と思われる。のちに開墾(かいこん)が進み、そのため川を大きく分けて灌漑(かんがい)用水とし、そこに堤(堤防)が多く作られたので、堤と呼ぶようになったといわれる。また、江戸時代以前に佐土原藩から人々が移住し、その人々のかつての地名から堤と呼ばれたという。おそらくそのどちらも正しいと考えられる。


168 堤下(つつみした) 宮崎市 
宮崎南小学校がある所を池ノ内といい、校庭脇には上ノ池と下ノ池という「ため池」がある。池ノ内という地名が「ため池」から付いたことは容易に理解「ため池」がある。池ノ内という地名が「ため池」から付いたことは容易に理解できる。その池ノ下の北、地形的には下に当たる所が堤下である。溜池の堤防の下ということから付いた地名であろう。


169 東霧島(つまきりしま) 都城市高崎町 
高崎川の右岸に連なる長尾山地(ながおさんち)は、昔、霧島の高千穂の峰の大噴火による大量の溶岩流が流れて形づくられたという。長尾山地の東端に東霧島神社がある。当地が霧島山の東方の地であり、東の端を「つま」と呼んだことから東(つま)霧島の地名が発生したといわれる。東霧島神社は、霧島六社権現(ごんげん)の一社で、人々の信仰も厚い。境内には神話や伝説による遺跡も数多い。 山間部で谷も多く農業と山林業が主である。
東霧島神社

霧島六社権現(ごんげん)
1. 霧島神宮(きりしまじんぐう・鹿児島県霧島町)
2. 夷守神社(ひなもりじんじゃ・小林市細野)
3. 霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ・小林市細野)
4. 霧島東神社(別名:祓川神社)(きりしまひがしじんじゃ・高原町祓川)
5. 狭野神社(さのじんじゃ・高原町狭野)
6. 東霧島神社(つまきりしまじんじゃ・高崎町東霧島)



170 水流(つる) 宮崎市 
川が湾曲した所または川の近くの土地に多く付けられる地名。南に向って流れてきた大淀川が、高松橋あたりから大きく曲がり東に流れるようになる。そのカーブした右岸に水流(大塚)がある。その対岸を鶴島(つるのしま)というが、これは水流が鶴(つる)に変わったものである。大淀川下流右岸には、有田に上水流、中水流、下水流、田吉に水流田、下水流田、下鶴などを始め、水流の地名がおよそ15ヶ所あるがいずれも同じような地形から付けられた地名である。



171 鶴島町(つるのしまちょう) 宮崎市 
大淀川下流左岸で大きく東へ湾曲する砂州に当たる。大淀川改修工事が終了後の昭和10年頃に鶴島町が誕生し、同44年から鶴島1〜3丁目となった。鶴が飛来していたとの説もあるが、川辺の地や水路を「水流」といい、この地も以前は「下水流、上水流、沖水流」という字(あざ)名であり、「水流」を好い字の「鶴」に変え、砂州地であるから「島」と呼んだと思われる。
戦前の5万分の1地図



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