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 10. 新別府(しんびゅう)川

宮崎市池内町奈良ヶ山から大淀川に合流する延長12.8kmの1次支川。この川の下流域の宮崎市の町名である新別府町に由来する。別府は元来「別符」と記し、「ベップ、ベフ、ビュウ」と読み、平安末期から戦国期に成立した土地制度である。新別府町は戦国期に見える「新別符」に由来するが、室町期に見える上別符に対して新たに開かれた別府ということから、「新」の文字を冠したと思われる。
新別府川は『日向地誌』では前川(大島村)、竹下溝(吉村)、南川(新別府村)と記されている。大島神社にある『(明治26年の)百姓一揆鎮静記念碑』には大島川、昭和12年(1937)の宮崎市地図には新別府川と記載されている。


 一ツ葉(ひとつば)橋

この橋が新別府川の最下流、つまり一ツ葉入り江直前の橋であることに由来する。以前の一ツ葉橋は通称五厘橋(五厘橋参照)と呼ばれていたが、昭和48年(1973)の一ツ葉有料道路の完成によりその役割を終えた。宮崎市東部の大淀川以北の海浜を一ツ葉の浜といい、大淀川河口左岸の潟湖(がたこ・ラグーン)を一ツ葉の入り江と呼んでいた。一ツ葉はこの浜にある松に往々に見られる「一葉(=単葉)」に由来する。

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 檍(あおき)橋

この橋のすぐ東側に宮崎市立檍小学校があることに由来すると思われる。檍という地名は明治22年に山崎、江田、新別府、吉村の4村が合併して誕生した檍村が初見であり、檍という大字・小字があったわけではない。檍は『日本書紀』に記されたイザナギノミコトが禊(みそぎ)をした「日向の小戸の橘の檍原」から名付けられたとされる。檍(あおき)は、本来は木が青々と繁っている所の意味である。

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 坂元(さかもと)橋

この橋のある小字名に由来する。坂元は宮崎市立檍中学校の南側で新別府川北側に位置し、シーガイア付近の第T砂列(松下橋参照)の南端で、坂の麓(ふもと)である。この地から連続して第T砂列下の低地帯の小字名は、麓・城元(城は高地帯の意)・坂元(同じ字名)であり、いずれも「坂の下」を意味している。

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 浮之城(うきのじょう)橋

この橋が、宮崎市浮之城町のすぐ東側に位置することに由来する。この付近に城があったという人もいるが、文献上はその存在は認められていない。
浮之城周辺は低地帯であり、大雨時に周辺が水に浸かっても、この地は浮いたように水没しない高地帯であったことに由来すると思われる。城(じょう)という語が城郭を意味するようになったのは後年のことで、元来は高地帯・畑の意である。

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 大島(おおしま)大橋

この橋がある宮崎市大島町に由来する。大島の地名は室町期に成立した大島保(行政区画の一つ)が初見である。島は大雨時に周辺が水に浸かっても水没しない高地帯を意味し、「大」が冠していることからかなり広い地域と思われる。事実、宮崎育成牧場及び周辺の集落地帯が、宮崎神宮から続く広い沖積段丘の高地帯であり、同牧場内の船塚(塚には小丘の意がある)や周辺の原ノ島、大原、笹原などの高地帯を意味する小字が残されている。
「沖積段丘」〜現在の平野は、地質時代の沖積世に川が運んだ土砂が堆積してできている

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 村角(むらすみ)大橋
この橋がある宮崎市村角町に由来する。村角の地名は平安期末期に成立した村角別符が初見である。角(すみ)は隅と同じ「端(はじ)」の意味であり、村角は宮崎郡の北端に位置することに由来すると思われる。宮崎郡は那珂郡等の成立とともにその地域が変わるが、村角は昭和28年(1953)の町村合併促進法公布までは宮崎郡の北隅に位置していた。
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 三反田(さんたんだ)橋

この橋の近くにある宮崎市花ヶ島町の三反田という小字に由来する。「・・反田」は田圃の面積を意味し、この地は三反の広さ(900坪)の田圃(たんぼ)であったと思われる。新別府川周辺にも六反田、五反竿、四反田、四ツ畝町等の小字があり、全国的に同系の地名は多い。

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 新別府川(しんびゅうがわ)橋

この橋が新別府川に架かることに由来するが、下流域で同川に架かる新別府橋と異なり「川」が付いている(新別府川参照)。かつてこの地に架かっていた橋について『日向地誌』には、明治初年(1868)に原田某と三ツ森某が長さ13間(約23m)の石橋を造ったために、その名をとって「原三(はらみ)橋」と名付けたと記してある。

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 観音免(かんのんめん)3号橋

この橋のある宮崎市花ヶ島町の観音免という小字に由来する。「免」は江戸時代の免田つまり租税免除の田圃(たんぼ)に由来する。観音様の運営・維持費を捻出(ねんしゅつ)するための田圃であることから地名になったと思われる。大宮小学校の北側にも同じ小字があるが、その観音様が同じものか、また観音様がどこにあるのかはわからない。

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 花ヶ島(はながしま)橋

この橋がある宮崎市花ヶ島町に由来する。地名における「ハナ」は元来鼻・端であり、突き出た地形、崖の意で花という好字にかわる。「シマ」は島以外に村・集落という意もある。同町には島らしき高地帯はなく集落と考えると、『日向地誌』にある「(花ヶ嶋は)吉村の住民が村を出て漸次この地に集落をなした(概要)」つまり(本村を)飛び出した人々の集落という意にもなるが推測の城を出ない。なお、旧国道10号が西田川を跨(また)ぐ橋も花ヶ島橋という。(同橋参照)

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 黒太郎(くろたろう)1・2号橋

この橋のある宮崎市池内町の黒太郎という小字に由来する。「クロ」は黒い色の意もあるが、地名では「古い」の意に使われることが多く、黒、畔等の文字が当てられる。「タロー」は小平地を意味し、太郎、田老、平などの文字が当てられる。この地の西隣が新開という小字であり、隣接する新しく開墾された新開に対して、古くに開墾された土地であることから黒太郎と名付けられたと思われる。

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 新開(しんかい)1・2号橋

この橋のある宮崎市池内町の新開という小字に由来する。新開は文字どおり新たに開かれた土地を意味し、新貝、新改、新涯などの文字も使われる。新田、新屋敷、今田、今治、今出なども同義である。江戸中期の『宮崎役所萬覚(よろずおぼえ)』の中に池内村に「水の不便な場所があり田高六町五反余早く枯れるので堤を造って欲しい(概要)」との住民が願い出ているように、この辺りは新田開発のための堤を必要とする土地であったと思われる。

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 伊勢領(いせりょう)橋・城代(じょうだい)1号橋

これらの橋のある宮崎市池内町の伊勢領、城代という小字に由来する。「イセ」は石、磯の転語の場合もあるが、田圃(たんぼ)である同地においては考えにくい。天正8年(1580)から6年間にわたり、島津義久の家老・上井覚兼(うわいかつけん)伊勢守が同地の北西の丘にあった宮崎城を任されていた(=城代)史実を踏まえると、彼がこの地の開田等に関与したと考えられる。

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 池内(いけうち)

この橋がある宮崎市池内町に由来する。『日向地誌』には池の数について池内村(13)、大島村(3)、南方村(3)、花ヶ島町(1)と記され、池内村は周辺の村に比べ池の数が突出している。内(ウチ)は奥、入り込んだ地形を意味し、池内はまさに池の多い、北側の山裾に入り込んだ土地である。

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五厘(ごりん)橋  
昭和49年(1974)に一ツ葉有料道路の一部である現在の一ツ葉橋が架設されるまで、新別府川の最下流に架けられていた橋で、正式には一ツ葉橋といい、通称五厘橋と呼ばれた。明治20年代に清水十次郎夫婦が一ツ葉稲荷神社参拝の利便を図るために私費を投じて架設し、五厘の橋賃を取ったことに由来する。その後橋賃は廃止され、幾度か架設されたが、昭和60年(1985)の廃橋まで五厘橋の愛称で親しまれた。
石橋供養塔  
石橋記念塔は、江戸廻国や伊勢参りをした人々が、各地で世話になったお礼に故郷の交通の要所に石橋を架設し、その供養を記念したものである。新別府川等に幾つもの石橋があったことは『日向地誌』にも記されているが、現・小松川に石橋があったことは記されていない。しかし、かつての小松川の水源である帝釈寺(たいしゃくじ)(名田)池脇、名田神社脇側溝内、祗園橋(同橋参照)脇の三ヶ所に江戸期に建立された石橋供養塔が残されている。
百姓一揆鎮静記念碑  
明治26年(1893)の夏は全国的なかんばつが続き、宮崎でも60日も雨が降らず、水不足となった大島村の農民たちは、新別府川に堰(せき)を築き、川水を自らの田畑へと灌漑(かんがい)した。そのため新別府川の水は下流域の吉村へは流れず、吉村の農民数百人は大島村に押しかけ、堰を壊して吉村へと水を流した。当然両村間に大騒動が起きたが、長老らの執り成しにより「堰は字・杖突より上流に造るのは随意だが、その下流には造らない」との条件でこの騒動は解決をみた。杖突は新別府川が西田川と合流する上流にあることを考えると、西田川の水は吉村に流すことで合意をみたと考えられる。宮崎市大島町にある大島神社にはこの騒動を伝える「百姓一揆鎮静記念碑」が残されている。
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