平家にかかわる話も多い。田川市白鳥の成道寺(じょうどうじ)境内に、「小督(こごう)の墓」と呼ばれる高さ約三メートルの、笠石を積み重ねた優美な花崗岩製の七重の石塔がある。年代などの文字はないが、『田川市史』上巻には、南北朝時代の作で筑前の影響があると記している。

 小督は『平家物語』巻六に書かれていて、中納言(ちゅうなごん)藤原成範(ふじわらしげのり)の娘で琴の名手であり、宮中一の美女とうたわれ、高倉天皇の寵愛を受けていた。ところが、天皇の中宮(皇后の別称)は、時の権力者平清盛(たいらのきよもり)の娘、建礼門院(けんれいもんいん)徳子(とくこ)であり、清盛は天皇の愛を奪った小督を憎み、尼にして宮中から追放した。歳は二三歳、京都北部の嵯峨の辺りに住んだといわれ、天皇もやがて一一八一(養和元)年、二一歳でなくなった。

 田川での話は、宮中を追われた小督は、太宰府の役人である親戚を頼ろうと、小倉からの金辺(きべ)峠を越えこの地を通る時に、侍女の糸(いと)が溝を飛ぼうとして誤って死んだ。小督はそれから気分がすぐれず、成道寺で病床に伏してしまい、村人たちは手厚く看病したが、そのかいなくここに葬られたという。侍女の糸の墓といわれる石塔も、田川市の下伊田東公民館の前にある。ここには安養寺という寺があったということで、楚字を刻んだ石塔や五輪塔等もある。糸の墓は、花崗岩製、高さ二・四〇メートルの五重塔で小督の塔にくらべると笠と笠の間隔が長く素朴である。また、田川市の香春町(かわらまち)境近くに糸飛(いととび)の地名がある。

 一一八五(文治元)年、壇浦(だんのうら)で滅んだ平家の落人(おちうど)は、各地に落ちのびて身を潜めたという。安徳天皇も無事生きのびて、城田郷(きだごう)(赤池町(あかいけまち)付近)に一時身を潜めたという話がある。また、壇浦の戦いの前、天皇はこの地に留まり山鹿城(やまがじょう)に移るが、その時、高瀬船で運んだのが、この地の川船船頭の七蔵という人であったといわれる。

 他にも、「水巻町(みずまきまち)猪熊(いのくま)小学校正門前北側の十三塚」「添田町(そえだまち)野田の賀茂(かも)神社近くにあるお蝶(ちょう)が淵(ふち)」「遠賀川船頭の話」など数多くの話が残っている。

― 香月靖晴著『「遠賀川」流域の文化誌』より ―