農民は田に水を引くためにさまざまな辛苦を味わわねばならなかった。嘉穂町(かほまち)上西郷(かみさいごう)に、「正人(しょうじん)どん」という鉄棒を杖がわりにする力持ちがいた。遠賀川は上西郷村の近くを流れているが、対岸は福岡本藩で水当てがよいのに、上西郷は支藩の秋月藩であり田植えも思うにまかせぬことが多かった。

 上西郷の村人は、遠賀川の水を分水してもらうため、繰り返し福岡藩の役所に嘆願して、やっと「一くわの幅だけ」の許可を受けた。正人どんもこの嘆願にずっと参加していて、これで村人が幸せになると喜んだ。そこで、正人どんが知恵をしぼって考えたのが、幅の広いくわである。正人どんは、村人と力を合わせて幅一メートル以上の大ぐわを作り、遠賀川の土手に打ちこんだ。水は、勢いよく上西郷の田に流れていき、村人は歓声をあげて喜びあった。

 だが、立ちあっていた福岡藩の役人は、自分たちの思惑とは違うので、腹の虫がおさまらない。正人どんが水の流れを見つめて石橋の上に立っているところを、後ろから突き殺し、さらに子どもまで殺した。しかし、正人どんが開いた水路は、そのまま流れて村の田をうるおした。その後、村人たちはこの水路を「一くわ掘り」と呼び、正人どんが殺された橋の石を村の裏山に移して墓石とし、石橋天神としてあがめた。今も、正人どんの命日旧暦七月七日に上西郷の人たちは祭りをかかさない。

 一くわ掘りと同様の伝承は、碓井町(うすいまち)光代(こうだい)にもある。遠賀川左岸の田んぼの中に幟が数本立っている小祠があり、スーレ様とか須藤(すどう)大明神(だいみょうじん)と呼ばれている。祭神を須藤様といい、中に三、四基の自然石の石塔がある。この地もすぐそばを遠賀川が流れているのに水利が悪く、農民は苦しんでいた。

 村人たちは、須藤様を先頭に、灌漑用水路の建設を秋月藩庁に繰り返し繰り返し嘆願して、やっと許可がおりた。しかし、それには条件があって、一晩のうちに水を通せば許可するということであった。須藤様は、村人と協力して幅が狭いくわを数多く作った。村人は総出で、一晩のうちに細いながらも水路を作り、みごとに水を通した。藩庁は、正式の灌漑用水路を造ることを認めざるをえなかった。

― 香月靖晴著『「遠賀川」流域の文化誌』より ―