江戸時代の「文明ロード」

戦乱の時代が終わり徳川幕府が誕生すると、五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)、八脇街道、宿場、関所、一里塚などが整えられました。

 

長崎街道は山陽道につながる脇街道で、小倉から長崎までの57里(約224km)が25の宿場で繋がれました。鎖国時代、長崎は海外の文化や技術が入ってくる唯一の窓口でした。参勤交代の大名も出島のオランダ館長もこの道を歩いています。

 

ドイツ人の医師ケンペルは2度江戸に参府し、帰国後『日本誌』(抄訳したものが『江戸参府旅行日記』)を刊行しました。

 

オランダ商館の医師で植物学者でもあったツュンベリーも江戸に参府し、帰国後は『日本植物誌』を刊行。『江戸参府随行記』では「この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている」と、日本の街道を賞賛しています。

 

文政9年(1826)にはシーボルトもオランダ使節江戸参府随員としてこの街道を通り、『江戸参府紀行』に日本に関する多くの記録を残しています。

 

長崎街道が歴史上、最も大きな役割を果したのは幕末から維新の動乱期。西欧諸国によるアジアの植民地化に危機感を持った人々が行き交う道となりました。

 

長崎で海軍術を学んだ勝海舟、長崎に日本初の海運会社・亀山社中(のちの海援隊)を設立した坂本竜馬、倒幕運動に奔走して長崎へ向かった伊藤博文…、長崎街道はこれら維新の志士たちの熱い思いを見守ってきたのです。

 

また鍋島藩は鍋島藩自体他県と交わることを制限する二重鎖国状態を取って、長崎から海外の先進技術を密かに入手していました。鍋島藩10代藩主、鍋島直正は鉄製大砲を鋳造するための反射炉をつくり、最新の軍備を充実させていきました。これが戊辰戦争で大きな力を発揮し、新政府の樹立を助けました。こうして鍋島藩は明治政府の新しい国家体制づくりに参画することになるのです。

 

 亀山社中跡 

亀山社中跡

日本最初の海運会社・亀山社中の「社中」とは、「人の集まり」をさし、竜馬たち武士の他、町人、医者、 農民たちが参加しました。

築地反射炉跡

築地反射炉跡

日新小学校校庭にはミニチュアの反射炉とカノン大砲がある

 

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