082 木浦木(きうらぎ) 小林市
小林の最奥部にあり、木材搬出(はんしゅつ)のための木馬路(きうまみち)が多く作られていたことから、そのように呼ばれるようになったと思われる。能登(のと)半島突端(とったん)にも木浦木海岸、木浦木トンネルの名があり、山の奥の土地という意味と思われる。小林の木浦木も同様の場所にあるから、同じ意味の土地と考えてよいだろう。辺路番所が置かれていたという。

木馬路(きうまみち) 木材運び出しのため、丸太〈盤木(ばんぎ)〉を敷き並べ木馬を滑走させる道。
辺路番所 江戸時代には、本道(街道・往還)の番所や関所が設けられた。
 しかし本道以外に、裏道も使われるのでそこに番所を設けることもあった。本道以外のところに設けられた番所を辺路番所という。



083 祇園(ぎおん) 宮崎市
昭和2年に誕生した祇園町は、同域にある祇園社(現・祇園3丁目)に由来するとの説がある。さらに祇園4丁目の北端は元・下北方町字祇園下という字(あざ)であり、県道南俣宮崎線より北側には今も同じ字(あざ)名が残されている。京都にあこがれ、全国に祇園神社、祇園町は存在しており、祇園社の存在とは無関係に「祇園」という言葉にあこがれ、町名としたのかも知れない。


084 祇園台(ぎおんだい) 宮崎市高岡町
ここは、高岡町で最初の大規模住宅造成地で、標高13〜60メートルの小高い山林を切り開いて造成した。地区名はこの地の「祇園」から付けられた。祇園(ぎおん)の地名は、全国各地にあるが、もとは京都の八坂神社(やさかじんじゃ)別名・祇園神社のある周辺の地名をいう。祇園の神が祭ってあるから、祇園の名が付いている。
祇園台

祇園の神
八坂神社の祭神・牛頭(ごず)天王はスサノオノミコトとおなじ人ともいう。
牛頭天王は、諸行無常(しょぎょうむじょう)と鳴ることで知られるインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の守護神であるともいう。八坂神社を祇園社というのもここからきている。



085 北川内(きたかわち) 宮崎市 
全国的には川内、河内などの字をあて、カワチやコウチなどと読み、文字通り川の内で、川の流域の平地である。宮崎県内では川の近くや川が蛇行している所に多くあり、呼び方は「カワチ」「ガワチ」がほとんど、「コウチ」という呼び方は奥川内(北浦町)がある。県内には川内・河内の付いた地名が61か所、宮崎市には6ヶ所ある。


086 北俣・南俣(きたまた・みなみまた) 綾町の大字名 
大淀川の支流本庄川をさかのぼると、国富町と綾町の境で綾南川(本庄川)と綾北川の二俣(また)に分かれる。綾町大字南俣は綾南川筋(すじ)の地域、大字北俣は綾北川筋の地域である。国富町深年川上流の三名(さんみょう)川筋にも同じ地名があり、区別するため八代南俣(南俣川筋=三名川上流)・八代北俣(北俣川筋)という。「俣」は「俟(し〜待つの意〜)」の字形(じけい)を変えた日本製の漢字(国字)で、川や道などの分かれめの地形をさす。
綾南川(本庄川)と綾北川



087 京塚(きょうつか) 宮崎市
経塚(きょうづか)の経の字が京に変わったもの。経塚は経文や経筒を埋めた塚、またはそういう伝承のある塚をいう。仏教が衰(あとろ)えると考えたことから、世の中が不安になり経を入れた筒などを埋めて塚にした。中国では隋時代に、日本では平安時代後期から鎌倉時代にかけて流行した。宮崎市郡司分の霧島山では金属製の経筒が出土し、県内でも17個出土している。



088 霧島(きりしま) 宮崎市 
昭和2年に霧島町が誕生しているが、南九州では霧島信仰が強く、各地に霧島神社・霧島社があり、同町周辺にもかつては霧島社があった。さらにかつて同域に霧島前、霧島という字(あざ)名があり、現在も皇宮屋(こぐや)付近に霧島という字(あざ)名がある。どの霧島が同地の由来かはわからないが、どの字(あざ)名も霧島信仰が関与していたことは間違いないだろう。

霧島信仰 日本では古くから山を神として祭る山岳信仰があり、霧島山も神として崇(あが)められた。10世紀の半ばに性空上人(しょうくうしょうにん)が入山してから特に盛んになり、六所権現の形となった。権現とは、神仏習合の考え方で、仏が化身して日本の神として現れることをいう。



089 霧島(きりしま) 宮崎市
近くに建立されていた霧島寺にちなむものと思われる。霧島寺は明治初めに廃寺となった禅宗(ぜんしゅう)の寺で、大淀川右岸の堤防下に仁王像や供養塔(くようとう)が残っている。寺名ははるか西方にある霧島山に由来する。県内には広く霧島山信仰があり、霧島神社とか小祠を祭って霧島山と称する所が各地に存在する。それらの神社からは霧島山が望めるか、霧島山が見えない地域はその方角を向いているという。
霧島寺跡石塔群



090 木脇(きわき) 国富町 
伊東祐頼(すけより)は建長4年(1252)に、初めて日向の領地に赴任(ふにん)した。日向に来る前に遠江國(静岡県)「久野脇」を領地として「きわき又八郎」と名乗っていて、このことから「木の脇」の地名になった説がある。また、この地は昔から、養蚕(ようさん)の盛んな所で、絹分(きぬわけ)とか絹脇(きぬわき)と呼ばれていたことも、ここの地名に関わりがあるのではないかともいわれている。

養蚕(ようさん) 絹織物に使う生糸は「まゆ」から作る。その「まゆ」をとるために「カイコ」を飼うこと。
木脇小学校前の日待・月待・庚申(こうしん)待の併刻塔(いろいろの石塔が併せて建っている)。

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