虎居城の出来事
虎居城は、さつま町にあります。
川内川が城を囲むように180℃ヘアピン状にカーブしており。川内川を自然の壕(or堀)として
利用していたことが分かります。
虎居城を囲むように流れるここの川内川一帯は、虎居城と併せて歴史的価値があると山城の専門家から
教わったことがあります。
川の湾曲部に沿った城の敷地が、虎が伏しているように見えることから虎居城と呼ばれたとのことです。
虎居城は、平安時代末期に祁答院郡司の大前氏によって築城されたと伝えられています。
その後、幾度も城主が変わり、最後は宮之城島津家が居城していました。
長い年月の間には、領主の興亡で城主も変わり、様々な出来事があったことと思います。
下に記述する出来事をみると、歴史の流れ
もさることながら、底に暮らした人達の人生とか魂というものを
感じずにはいられません。
1390年頃
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出水市の大重悪四郎が虎居使途を攻め、城の下の川内川に追い込まれ敗戦し、首を獲られる。河原で首実検が行われたといわれている。
敵軍を推し込めたことから、この地を推込(しごめ)と呼ぶようになった。その後、悪四郎石(供養塔)が建てられた。
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1459年
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城主渋谷徳重の姫など8人が川内川で溺死。徳重は悲劇の城主と呼ばれている。虎居城の下を流れる川内川の瀬を「八女の瀬」と呼ぶようになった。
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1566年
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城主渋谷良重が妻に殺され、渋谷氏は滅亡した。祝宴の座で良重は妻の酌などで酔っていた時、妻の懐剣で刺された。
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1587年
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豊臣秀吉の薩摩侵攻の際、島津義久と秀吉の和睦後も虎居城主島津歳久は、最後まで秀吉に会わなかった。
秀吉の帰路、歳久の家臣が秀吉の率いる軍に襲撃を加えたといわれる。
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1592年
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豊臣秀吉の大阪帰路後、虎居城主島津歳久は切腹を命じられ自刃する。
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1615年
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徳川幕府の一国一城の令により、虎居城が廃城となる。廃城後も家臣の一部は、城から離れられず、城主不在の城内に
住み続けた。
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参考資料:「虎居城物語(宮之城文化懇談会編)」・「虎居城跡現地説明会資料」
執筆:防災エキスパート 加治屋義信