001青井岳(あおいだけ) 都城市山之口町
昔は「月影(つきかげ)日影もささぬ深山(しんざん)」といわれ、その中を官道(かんどう)ではあるが鬼ヶ山道と呼ばれた道が、水俣(みまた)駅から救仁(くに)駅に通じていた。この山中で最も高い青井岳(563メートル)にちなんで、青井岳という集落名や地名が付けられた。青井の語は、一年中青々と木が繁(しげ)っていることから出たと思われる。
現在は道路も整備され、温泉・キャンプ場などもできて県民の保養地となっている。

救仁(くに)駅は、現在の国富町(本庄あたり)
大化の改新(645)によって、都と地方を結ぶ道が整えられ、駅は30里ごとに置かれることになっていた。
駅 : 日向には16の駅(役所)が設置され、そこには5頭前後の馬が常備され、必要に応じて活用されていた。
青井岳キャンプ場と国道269号の青井岳大橋



002 赤江(あかえ) 宮崎市
昔、大淀川は赤江川と呼ばれた。大淀川河口に可愛(かえ)という入り江があって、大淀川とつながっており、川の名前も可愛川と呼んだ。それがなまって赤江川になったという。一説には、那珂江(なかえ)が赤江(あかえ)になまったとの説もある。   
さて、可愛はエといい、『日本書紀』に「ニニギノミコトが亡くなったので筑紫(つくし)の日向可愛之山稜(ひむかのえのみささぎ)に 葬(ほうむ)った」とある。県北部延岡市北川町に可愛岳(えのたけ)という山があり、『日本書紀』にいう山であるという理由で陵墓参考地(りょうぼさんこうち)になっている。

『日本書紀』奈良時代初めにつくられた歴史書。日本の天地のはじまりから、持統天皇(じとうてんのう)までのことが、漢文で書かれている。
陵墓参考地(りょうぼさんこうち)天皇家の墓の可能性のある所。


003 吾妻町(あづまちょう) 宮崎市
大淀川に架かる鉄道橋の北詰(きたづめ)東側一帯の町名で、旧字(あざ)は小島、出口といった。明治時代になると松山町は料亭などの歓楽街(かんらくがい)として発展し、新地(しんち)とも呼ばれ、明治32年にさらに東側へと発展した。その地は「東(ひがし)新地」と呼ばれ、やがて「東(あづま)→吾妻」と好い字に変わり、吾妻新地という通称になった。昭和2年に正式な宮崎市の町名となり、現在に至っている。

旧字(あざ) 一つの村の中にある、さらに狭い土地の名称。


004 油田(あぶらだ) 宮崎市 
竹原田の西側に接し、大淀川・瓜生野川に挟まれた土地の字(あざ)名である。いかにも油田(あぶらだ)があったようであるが、用水路を意味する井手(イデ)が「ユデ→油出→油田→アブラダ」に転訛(てんか)したと思われる。井手が湯出という地名に変わって温泉があったと勘違いされる場合もある。現在も細江に「油田」、小松の大谷川に「油出橋」があり、同様の地名転訛と思われる。

油田(あぶらだ) 油がにじみ出てくる土地。たくさん出ると油田(ゆでん)になるが、日本ではほとんどない。


005 余り田(あまりだ) 宮崎市
余り田とは平安時代から室町時代にかけて、荘園に認められている田地以外の田をいう。台帳記載外の田で、これが公認されると加納(かのう)あるいは加納余田、加納田と呼ばれた。余り田は浮田の近くにあり、西・南・東の三方が丘陵で、その狭間(はざま)にある迫田(現在は宅地)は、浮田と同じように免税地であったことが考えられる。

荘園平安時代から室町時代にかけて、有力な貴族や寺社などが所有した領地。鎌倉時代になると、守護や地頭になった武士たちに支配されるようになった。豊臣秀吉の時代に廃止された。
余り田があった宮崎市浮田付近



006 阿耶・亜椰(あや) 綾町の古名C−5
綾(あや)町の昔の呼び名は「あた(だ)のなかや」といい、古代の頃には「阿陀能奈珂椰」「亜陀能奈珂椰」と漢字で表され、その後、最初と最後の1字を取って「阿耶」「亜椰」に2文字化されたという。「あた(だ)・の・なか・や」は「急傾斜地の中の原野・低湿地」、あるいは「吾田・県(あがた)の中の原野・低湿地」の意味であろう。奈良時代日向国の16駅の一つ、綾町の駅名には「亜椰」が用いられた。綾町立町(たてまち)に「亜椰駅跡」の石碑が昭和7年に建てられた。大昔の呼び名が今なお使われているとは何とすばらしいことであろうか。

綾の名義(あやのめいぎ) 
奈良時代の頃、綾町の地名は「阿椰」「亜椰」であったという。それが「綾」に変わったのは11世紀頃以降と思われる。『三国名勝図会』(さんごくめいしょうずえ)には、次のようなことが書かれている。
綾という名称については、平安時代に法華嶽薬師寺に来たという伝説の多い女性・和泉式部※2が、「油菜の花が美しく咲いているのを見て、綾をおりたるがごとし」と言ったのが、始めであると伝えられている。
あるいは、古代の渡来人が移住して、錦織(絹織物)を伝えた土地であったかも知れない。

地名の2文字化は、和銅6年(713)元明天皇の命「諸国の郡、郷の名は好き字を用いよ」によって行われた。
『三国名勝図会』(さんごくめいしょうずえ)
江戸時代後期に薩摩藩が編纂(へんさん)した薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を書いた文書。
和泉式部は平安中期(977年頃〜1036年頃)の恋愛経験や伝説の多い女性。
亜椰駅跡記念碑
綾町全景



007 菖蒲原(あやめばる) 都城市 6
北の境を年見川が西流し、菖蒲橋で年見町と連絡している。戦後市営住宅がたくさん建って市街化した菖蒲原は、それまでは田んぼであった。その中に広い湿田があって、そこに古来のアヤメが多数自生していたので、菖蒲原の地名が起こったといわれる。都城消防本部や市菖蒲原浄水場(じょうすいじょう)があるのも、豊富な水系に恵まれた地形によるものであろう。
都城市菖蒲原浄水場



008 嵐田(あらしだ) 国富町
地名の由来は、鎌倉中期に嵐田太郎と称する領主が治めたことによるといわれているが、嵐田の人々は、本庄川の流域の村々と同じように何度も、大雨や台風によって、甚大な被害にあい苦しめられてきた。『日向地誌』には「川涯(かわきわ)ハ水害多シ」とある。現在も本庄川の対岸に旧嵐田の「川向(かわむこう)」という大字(あざ)地名が残っている所があり、嵐に痛めつけられ、洪水に作物を流された人々の恐怖や無念さが、このような地名を生んだのではないかと思われる。

『日向地誌』明治の初めの宮崎県内の郡・町・村の歴史や産業、土地のようすを記録した本。著者・平部僑南
本庄川と嵐田川の合流点付近にある水門



009 有水(ありみず) 都城市高城町
薩摩藩の地誌(ちし)によると、藩政時代は、有水川流域の田尾付近から西久保辺によると、藩政時代は、有水川流域の田尾付近から西久保辺りまでを有水村、残りの広い区域を宮原村と呼んでいたようである。明治になって全地域を有水村と呼ぶようになった。有水というのは、稲作の水があったことから起こった地名であろう。
この有水地区は高城(日和城)が都城島津領になってからも、下之城(伊東8城の一つ)とともに長く伊東領であり、有水備前守(ありみずびぜんのかみ)が守っていた。しかし元亀2年(1571)都城島津の北郷時久(ほんごうときひさ)軍に攻められ、無念(むねん)の最期をとげた。備前守は有水神社に祭られ、有水小・中学校の児童・生徒たちによって毎年「鉦踊り」(かねおどり)が奉納(ほうのう)されている。

「地誌」とは、その地方の地理について書いた本。
有水備前守を祭る有水神社



010 阿波岐原(あわきがはら) 宮崎市(神話地名)
阿波岐原、檍原は同じ意味で「アワ、アオ」は湿地帯を、原(ハラ)は広い土地を意味する。現在の阿波岐原町は大淀川左岸よりかなり北に位置するが、戦前は小戸の橘と同様に漠然(ばくぜん)と大淀川河口付近左岸一帯をさしていた。宮崎では一般に原は「バル」と発音し広い台地を意味するが、この阿波岐原はなぜか「ハラ」であり、広い低地帯である。
阿波岐原の松林とシーガイア



011 粟野(あわの) 宮崎市高岡町
宮崎市から国道10号を都城方面に進み、旧道沿いの高岡市街入口に粟野神社がある。『三国名勝図会』に、次のように書かれている。
「粟野神社はスクナヒコナノミコトとオオクニヌシノミコト及びその御子六体、合わせて八体の神様を祭っている。スクナヒコナノミコトは小さい神様で、粟の穂に乗って去川についたという」。
粟野の辺りは大淀川に沿った砂地だったので、粟がよく作られ、農業の神様としてスクナヒコナノミコトやオオクニヌシノミコトが祭られたのであろう。そのことから生じた地名かも知れない。
粟野神社

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