205 吐合(はきあい) 綾町・国富町 
大淀川の支流本庄川は、国富町と綾町との境で綾南川(本庄川)と綾北川の二俣(また)に分かれる。逆に上流から下ると両川が合流して一つになる。吐合は川の合流点の意味である。現に合流地あたりを吐合(はきあい・はけあい)といい、いつの頃からか同じ地形を「マタ」とも「ハキ」ともいったのであろう。県内には吐・内吐・小又吐・大吐・三ッ吐(ばき)・砂吐(すなは)・吐合(はき・はけあい)・波喜・波帰・流合(はき・はけ)・流合(はけあい・ながれあい)や、落合・又合・合又などもある。
吐 合



206 花木(はなのき) 都城市山之口町 
『歴代鎮西要録』(れきだいちんぜいようろく)に「太宰府(だざいふ)の役人、藤原隆家の子孫、実遠(さねとお)が日向三俣院(みまたいん〜高城・山之口・勝岡などの地〜)花木の地に初めて入り、花木氏の祖(そ)となった」と記している。それは平治元年(1157)ごろと思われる。藩政時代は麓が中心地であったが、現在は花木を花之木と呼び山之口町の中心地となっている。
古くからある地名であるが、その起こりは分からない。
山之口小より花之木地区をのぞむ



207 花見(はなみ) 宮崎市高岡町
大淀川の流れが現在のように粟野神社の下を流れ宮水流の飯山寺裏にあたり、倉岡糸原神社の辺りに流れていた頃、ここにはすでに自然堤防ができていた。それは「はなみ」(端水・端回・端波・鼻曲・鼻水)と呼ばれていたが、それが現在のはなみ(花見)となったのであろう。また、ここには宮水流の「渡し」があった。現在の国道10号花見橋のすぐ上流にあり、宮崎から高岡・穆佐に通ずる宮崎往還を結ぶ主要な幹線の「渡し」であった。

「渡し」 「渡し」とは「渡し舟」のことで、橋が架けられる前の大淀川には、たくさんの「渡し」があった。昭和46年(1971)、宮崎市の「柏田渡」がなくなるまでは、大切な生活の足だった。
対岸から花見をのぞむ



208 馬場崎(ばばさき) 宮崎市
蓬莱山城(ほうらいざんじょう)のすぐ南にあるので、馬場として使った所に付いた地名と思われる。蓬莱山城は平地に隆起している自然の丘を利用して城構えしたもので、県(あがた〜延岡〜)の領主土持宣弘が、永徳年間(1381〜1384)に築城して、その末子染をここに置き、三須時信(みすときのぶ)を後見(こうけん)として万事を執行(しっこう)させた。


209 馬場田(ばばだ) 宮崎市  
北に石塚城、南に高蝉城(たかせびじょう)があったので、武将の馬術鍛錬場であったことが考えられる。高蝉城は本勝寺の北西、生目南中学校の東の丘陵にあった。丘陵の上は平地となっており城跡と確認できる。近年まで畑地だったようだが現在は杉が植林されている。西の端には妙円寺跡の石塔が残っている。高蝉城の築城年、築城者は不明。応永8年(1401)島津氏の兵が立てこもって石塚城の伊東祐武を攻めようとしたが、祐武はこれを撃退(げきたい)している。馬場は婆、祖母などの文字もあて、崖や傾斜地、畦(あぜ)の意味もあるという。浮田の馬場田は水田が広がるので、畦の意味であることも考えられる。
石塚城跡



210 早水(はやみず) 都城市 
大淀川右岸に位置する。早水神社境内の早水池からは盛んに湧き水(わきみず)が吹き出し、水の流れが早いことから早水という地名になったという。早水神社は、仁徳天皇の后(きさき)になった髪長姫(かみながひめ)の生誕地(せいたんち)と伝えられ、仁徳天皇、髪長媛、媛の父・諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)が祭られて、池の縁には沖水古墳もある。早水公園内には各県のあやめを集めた花だん「あやめ園」も造られている。
早水池



211 原(はら) 小林市須木 
現在は行政・文化の中心である。平坦地の高台である土地の自然の地形から生まれた地名と思われる。かつて田んぼに面した所に一の宮大明神(だいみょうじん)という神社があり、その前には広い参道があり、大きな鳥居も建っていたが、今はない。この前面の田んぼは宮田と呼ばれており、今も古老の中には覚えている人もいる。


212 祓川(はらいかわ) 高原町  
霧島東神社(祓川神社)の麓にある小さな川。イザナキ・イザナミの神が矛(ほこ)を持って降り立たれた時、多くの神々がここに集まり、おはらいをされた所という。霧島東神社に参詣する人は、ここで手を洗い、口をすすいで身を清めて神社に上ったといわれている。神社に近いおはらいの場からきた地名と思われる。
霧島東神社(祓川神社)



213 原(はる) 宮崎市  
南九州では台地上の平地を原(はる・ばる)という。また、原、春、治、晴、榛は田畑のある所に付けられる地名である。本郷南方の原は南北に長い砂丘上にあり、西側と東側は低地で水田となっている。


214 番所下(ばんしょした・ばんどこした) 宮崎市
大淀川右岸河口近くにある地名。『日向国那珂郡之内』という絵図(宮崎県立図書館蔵)に津口番所とあり二階建ての建物が描いてある。八重川が大淀川に合流するあたりである。番所とは、江戸時代に道路や港など交通の要所に設け、通行人や船の出入りを見張ったり税をかけたりした所である。津とは船着場、港のことで、津口番所は大淀川を行き来する舟や上方など、他所からの船の出入りを監視した。今、八重川に「番所」の名が付いた橋がある。
現在の番所橋 昭和7年の番所橋


トップへホームへ