012 飯田(いいだ) 宮崎市高岡町
高岡郷が置かれる(1600年)前、久津良名(くつらみょう)の一農村として、米の良くとれる所という意味で飯田の名で呼ばれたものと思われる。事実良田の広がる地域であり、久津良名としては重要な所であったと考えられる。「飯」は「いい」と呼び、米のことである。
飯田



013 生目(いきめ) 宮崎市
生目神社祭神の一つに藤原景清(ふじわらのかげきよ)がある。景清は平安時代末期の平家方の武将。壇ノ浦(だんのうら)の戦い後、源氏に降参し後に絶食して亡くなったとされている。景清は謡曲(ようきょく)や能、歌舞伎などに脚色されて全国に知られるようになった。それらによると景清は日向国に来るが、源氏の栄える世を見るのは忍びないと、下北方(宮崎市)の景清廟で両眼を抉(えぐ)って投げたところ、現在の生目神社がある所まで飛び、まだ眼が生きていたという。それが地名や社名となったと伝えている。別説にイクメイリヒコイサチ(11代・垂仁天皇)を祭ったからともいう。
生目神社



014 石峰(いしみね) 国富町
森永地区の北方に標高約120メートルの山があり、石峰と呼ばれている。頂上に県指定天然記念物の森永化石群がある。この一帯は硬い岩がかたまって地表に出ていて奇怪な景色となっている。これらは地質時代の新第3紀の中新世の半ば以降にできたといわれ、およそ1億5000万年〜1000万年前に堆積(たいせき)した宮崎層群からなっている。岩には無数の二枚貝や巻貝の破片が含まれている。化石は貝の死後、水に流され堆積したもので化石床(かせきしょう)という。これらの石が出ているので、石峰と呼ばれたのであろう。

地質時代地球の歴史で、地質を手がかりにして考えられた、大昔から現在までの時代。
山頂の岩石の中の化石群



015 石山(いしやま) 都城市高城町
石山の地名と関わりがあるのは石山観音寺(かんのんでら)である。この寺を開いたのは、応永6年(1399)ごろ遠州(静岡県)浜松から来た旅の僧・実庵(じつあん)で、曹洞宗(そうとうしゅう)の寺として開いた。本尊(ほんぞん)は江州(滋賀県)石山寺の本尊と同じ如意輪観音(にょいりんかんのん)だから石山寺と名付けたという。昭和6年(1931)発行の『宮崎県史蹟調査第8輯(みやざきけんしせきちょうさだい8しゅう)』は、石山寺の本尊は、江州石山寺の本尊と同じ如意輪観音だから、この地を石山村というのも、石山寺の名称からのものであろうと記している。

本尊(ほんぞん) 中心になる仏様。
石山観音堂



016 石山戦場川原(千町川原)
 (いしやませんじょうかわら) 
都城市高城町
国道10号に沿った石山片前公民館前の広い川原である。南北朝時代、高城と石山城を守っていた南朝方肝付兼重(きもつきかねしげ)は足利尊氏(あしかがたかうじ)の命(めい)をうけた畠山直顕(はたけやまただあき)軍に破れ大隅の高山に敗走した。17年後の正平13年(1358)11月、有名な戦記物語「太平記」は「菊池肥後守武光4000余騎にて畠山直顕親子ノ守ル石山城ヲ夜昼17日間攻メ敗走サセタ」と書いている。直顕親子は志布志に敗走した。その戦場跡で、千町川原といっていたのを戦場川原というようになった。

「太平記」 応永年間(1370)ごろ書かれた本。
戦場川原



017 一万城(いちまんじょう) 都城市
都城市街地の東南約2キロメートルの地を一万城という。北よりを柳川原川、南の境を姫城川が流れている。戦国時代、一万の大軍で攻めて来た伊東氏を、梅北城主は近くの小鷹原(こたかばる)で迎え撃(むかえう)った。深い沼地に白砂を敷き、林の中に兵を伏せ、作り物の白鷺(しらさぎ)を置いて無人のように欺(あざむ)き、伊東軍の一万の兵を誘い出して大いに破った戦場跡なので、一万場の名が起こったといわれ、今は一万城と書いている。現在、地域の中央には一万城団地が広がっている。
一万城団地



018 一里山・小田元(いちりやま・こだもと)宮崎市高岡町
現在の小田元・久木野公民館のある高台一帯を総称して一里山という。昔はこの一帯はうっそうと茂った深い山で、その広さは一里(4キロメートル)の山道を歩いても尽きないほどだったので、一里山の地名が付けられたという。
小田元(こだもと)というようになったのは、現在の小田元の中央に約30坪ほどの小さな田んぼがあり、誰言うことなく小田元というようになった。小さな田のある所という意味である。今はその田んぼはない。
一里山入口



019 犬熊(いぬくま) 国富町
本庄の万福寺には国指定重要文化財の「木造阿弥陀如来像(もくぞうあみだにょらいぞう)」などがある。縁起書(えんぎしょ)によれば大昔、山幸彦がこの地で狩をされた時、休息されると連れていた犬が狂ったように吠(ほ)え、今にも襲(おそ)いかかるように思われた。犬は山幸彦の後にいる熊を必死で教えようとしたのだが気が付かず、山幸彦は弓矢で犬を射殺してしまったを悔(く)やみ、弓と矢を三つに折って、その地に埋めた。このことから犬熊と呼ぶようになり、後世の人が三弓堂(みつゆみどう)というお堂を建てた。堂には県指定文化財「木像聖観音像(もくぞうしょうかんのんぞう)」などがあり、仏教文化が栄えていたことがうかがわれる。

縁起書(えんぎしょ) 神社や寺院の起こりを書いたもの。
万福寺の山門
万福寺の木造阿弥陀如来像(もくぞうあみだにょらいぞう)
三弓堂(みつゆみどう)の木像薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)



020 犬ノ馬場(いぬのばば) 宮崎市
馬場は馬の調練場(ちょうれんじょう)とか競馬場の意味がある。犬ノ馬場の近くに高蝉城(たかせびじょう)や石塚城(いしづかじょう)があったので武術の鍛錬場があったと思われる。石塚城は高蝉城の北約700メートルの所にあり、城主は門川伊東氏の6世の孫伊東祐武(すけたけ)で石塚殿と呼ばれた。伊東氏48城の一つ。今は、城ヶ丘団地になっている。なお、高蝉城跡は生目南中学校東の丘陵にある。
高蝉城跡



021 射場川原(いばがわら) 綾町
綾盆地(ぼんち)は綾南川(本庄川)と綾北川の間の沖積地(ちゅうせきち)で、川にちなむ地名が多い。射場川原は綾盆地の綾北川にかかる小田爪(こたつめ)橋のやや上流の地名で、射場のある川原の意味である。地元では「いばごら」という。江戸時代には弓の練習や流鏑馬(やぶさめ)などが行われた。カワラは水がかれて砂や石ころなどの多い川沿いの平地を意味する。

沖積地(ちゅうせきち) 川の流れの作用で土砂が積み重なってできた土地。地質時代で沖積世という時代は、ほぼ2万年前から現代までをいう。
流鏑馬(やぶさめ) 馬に乗って走りながら、三ヶ所に立てられた的(まと)につぎつぎと矢を射る競技。
小田爪橋上流の射場川原



022 今町(いままち) 都城市
今町の地名のいわれは不明であるが、一里塚としては九州で唯一の国指定史跡の「今町一里塚」がある。旧薩摩藩鹿児島の「札の辻」を起点とするもので、都城より一里(約4キロメートル)、並木道の続く志布志街道(現国道269号)の今町の外れ、鹿児島の末吉町との境の近くに築かれている、貴重な文化財である。近くの有里には、大淀川から取水した高木原用水路の取水口(水門)があるが、用水路の廃止により閉じられた。今町は、今繁盛している町の意味がある。

高木原用水路 延長16.4キロメートルで、今は高木原緑道として市民に親しまれている。
今町一里塚



023 入野(いりの) 綾町の大字名
綾町大字(あざ)名の一つで、主として綾盆地の周辺の地域(綾北川左岸東北部・綾南川右岸西部・綾南川右岸東南部など)をさす。江戸時代から明治17年(1884)の綾村との合併までは高岡郷入野村であった。入野は山や谷の奥に入り込んだ原野の意味である。言い伝えでは高千穂神社の祭神である三毛入野命(ミケイリヌノミコト)がこの地に滞在されたことにちなむという。

三毛入野命(ミケイリヌノミコト) ミケイリヌノミコトはカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)のすぐ上の兄。ミケは食物の意味。

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