102 神下(こうげ) 綾町
国富町から綾町に入って川久保橋を渡り、西へ1キロメートル余り行った主要地方道宮崎須木線の北側あたりの地名。19世紀の初めには「高下」とあり、幕末頃から「神下」となったらしい。『日向地誌』には「神下 郷鴫ノ西ニ接ス家24戸」とある。高下はコーゲ(芝草)の意味で、芝の多い土地や草原になっている所を意味する。江戸時代の頃の「高下」は短い草の生えた畠にも水田にも開きにくい土地であったのであろう。本県では川・河はコー・ゴーと発音する地名が多いから、コウゲ(川下・河下)にはカワシモの意味も考えられる。


103 郡元(こおりもと) 都城市
北の境を沖水川が西流する。国道269号が沖水川に架かる東郡元橋を経て縦断している。平安時代「島津」と呼ばれ、当地周辺が全国最大の荘園「島津の荘」の中心であったことから郡の元(地方の中心地)と呼んだと思われる。鎌倉時代に荘園の役人としてやってきた惟宗忠久(これむねただひさ)は、島津の地名を自分の姓とした。忠久の館跡地には島津之荘発祥(はっしょう〜初めての起こり〜)の地の碑と、祝吉御所跡記念碑文が建立されている。
祝吉御所跡

島津忠久と祝吉御所跡(しまづただひさといわよしごしょあと) 都城市  
島津家始祖惟宗忠久は、一説には源頼朝の子の一人といわれる。建久7年(1196)頼朝から日向・薩摩・大隅の三州守護職(しゅごしょく)として、最初は薩摩の出水郷(いずみごう)の木牟礼城(きむれじょう)に入り、翌年、安久の島津荘堀内御所を経て、祝吉に館を建てて治所とした。ここに居ること2年で鹿児島に去り、晩年は鎌倉で死んだといわれ、その墓は頼朝の墓の近くにある。

三州守護職(しゅごしょく) 頼朝は全国を治めるため、ご家人の中から有力な者を守護に任命し国ごとに配置した。守護の主な仕事は、幕府に反逆する者や悪いことをした者を捕らえたり、朝廷を警護することだった。後に政治も行った。



104 五ヶ所・十ヶ所(ごかしょ・じゅっかしょ) 綾町
綾盆地南部の綾南川橋の上流・下流辺りの地名で、景行天皇の熊襲征討(くまそせいとう)の伝説にちなむ。五ヶ所は熊襲軍が綾南川の南岸に5本の旗を立てた所、十ヶ所は天皇軍が北岸に10本の旗を立てた所、また両軍が入り乱れて戦った川を乱川という。地元では五ヶ所(せ)・十ヶ所(せ)という。『日向地誌』に「十ヶ所(せ)渡 綾南川ニアリ幅一町平水深二尺余…冬月一本木橋ヲ架ス」とある。所(せ)は瀬(泡立つ浅い所・狭い所)の意味もあるか。

熊襲征討(くまそせいとう) 支配に服さなかったクマソタケルをヤマトタケルノミコトが征討した伝説。
綾南川橋下流の十ヶ所あたり



105 九瀬(ここせ) 小林市須木 
本庄川の支流や八重尾川と九瀬川の合流点が、下九瀬の中心部で、ここから九瀬川をさかのぼると上九瀬。両集落を合わせて九瀬と呼ぶ。九瀬の九というのは多いとか集まるの意で、古文書には、文化・天保のころから九瀬と書かれている。麓(ふもと)を表(おもて)、この九瀬を裏(うら)と呼んでいたと伝えられている。麓にやって来る九瀬の人々を「裏の誰々が来る」と麓ではいったと伝えられている。この表(おもて)から裏(うら)に行くのに九つの瀬(浅瀬)を渡って行ったという。

九つの瀬(浅瀬) 九つの瀬とは (1)宮の瀬 (2)平野 (3)深瀬中河間(田代氏宅と天石氏宅の間)(4)田尻 (5)釘水流 (6)吐合 (7)現在の島田町保育園の下 (8)こやし坂 (9)現在の下九瀬の中心部八重楢男氏宅前をいう。



106 小島(こじま) 宮崎市
大淀大橋から鉄道橋北詰(きたづめ)一帯に位置し、松山に連続する瀬頭村の字(あざ)地であったが、昭和2年から同41年までは宮崎市の町名であった。『日向地誌』には松山から小島に続く長さ550メートルほどの「小島堤」という堤防があったことが記されている。浸水時にもこの付近は小さな島となり、水没しない小高い土地であったことに由来すると思われる。


107 五反田(ごたんだ) 宮崎市
五反の田のある所のことで、起源は中世や近世の開墾(かいこん)に伴うものといわれる。五反田は長嶺や生目、本郷北方などにあり、また、六反田も小松、糸原、柏原、古城、本郷南方、郡司分などにある。八反田は跡江に、四反田は糸原などにもある。


108 五町(ごちょう) 宮崎市高岡町
古記録に三日町、八日町、仲町、下町、上町、新町の呼び名が残っている。しかし、三日町、八日町の呼び名は現在使われていない。五町は五つの町で呼んだものか、多くの町の意味か、いずれか分からないが商人の住んでいた町を意味するものであることは確かのようだ。現在の総合支所南側の大淀川寄り一帯が大字(あざ)五町であり、昔の五町村である。
五町商店街



109 後東寺迫(ごとうじざこ) 宮崎市 
後東寺迫西の丘陵にあった護東寺(ごとうじ)が地名の由来である。真言宗護東寺は延宝5年(1677)に伊満福寺49世頼雄法印が開山した寺で、頼雄法印没後はその弟子の南照院が継いでいる。南照院は宮崎やその周辺に多くの仏像を残した串間延寿院(くしまえんじゅいん)・円立院(えんりゅういん)の祖で、延寿院・円立院は本寺の住職を勤め、後東寺迫墓地には円立院一族の墓石が残っている。迫(さこ)というのは、谷または谷のいきづまりをいう。
後東寺迫



110 木之川内(このかわうち) 都城市山田町
木之川内は源(みなもと)を霧島山の東麓に発して、西岳村を通り木之川内に流れ込む木之川内川に沿った集落である。これと同じように是位川内川(じがわちがわ)に沿った是位川内、麓川内川(ふもとがわちがわ)に沿った麓川内があり、川名が集落名になっている。川内(河内)の付く地名は多いが、いずれも川と関連づけられての地名が多い。木之川内は、樹木の多い川内ということかも知れない。木之川内小学校もここにある。
木之川内集落



111 木場谷(こばたに) 高原町 
木場は、山で切った木を集めて置く山間の小平地をいう。谷に沿って木を集めるから、谷の出口付近に木場ができやすい。木場は、山林で働く人の休憩場所にもなった。木を切り出す山には、必ず出てくる地名である。


112 小林(こばやし) 小林市の市名 
慶長年間(1596〜1615)から小林と呼ばれたという。当時霧島山麓に大樹の少なかった土地の自然の地形から生まれた名称と思われる。戦国時代にこの地に築かれた城を三ツ山城と呼んでいた。古来辺境守備の地で夷守(ひなもり)の古名が残されている。小林は大きく分けると真方(まがた〜北の方〜)と細野(ほその〜南の方〜)の二つに分かれていた。

陰陽石(いんようせき) 小林市  
浜の瀬川にあり、詩人野口雨情(のぐちうじょう)が訪れた時に、即興で作った「浜の瀬川には、天下の奇岩、人にゃ言うなよ語るなよ」の詩で有名な名勝(めいしょう)である。これは同じく野口雨情が詠(よ)んだと言われる能登半島の「能登の金剛のゆべしのもちは、誰が引くやら切れはせぬ」と並んで双璧(そうへき)といわれている。

詩人野口雨情(のぐちうじょう) 明治15年茨城県生まれ。童謡・民謡詩人として活躍し、「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」など63年の生涯に2,000余りの詩を残している。
双璧(そうへき) まさり劣りのない二つのすぐれもの。
陰陽石



113 小林市須木(こばやししすき) 小林市須木
旧須木村。平成18年3月20日小林市と合併。現在は小林市須木大字(あざ)○○といわれている。天文年間(1532以降)以前より、須木の名称はあったが、天正(1573)以後、島津の領有となった。明治22年正式に須木村となった。須木は樹木の多い所の意味であろう。
須木村には大字(あざ)がなかったので、昭和50年前後に、五つの大字(あざ)が付けられた。

永迫奇岩群(ながさこきがんぐん)
今から約30〜35万年前、霧島の旧期火山(きゅうきかざん)の大爆発で、大規模な加久藤火砕流(かくとうかさいりゅう)が噴出(ふんしゅつ)した。火砕流は固まって溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)となり、上部の方は固まらないシラスのような火山灰層となった。その結果、上部の火山砕屑物(さいせつぶつ)は浸食(しんしょく)によってほとんど流失し、現在加久藤火砕流を示す地層としては、小林市からえびの市に分布する下部の溶結凝灰岩のみということになった。「陰陽石」や「須木の観音滝」は、この岩石が地上で浸食された姿である。
この小林市須木永迫(ながざこ)にある奇岩群もその一つで、大淀川上流部の永迫谷川(ながざこたにがわ)にそびえている。
行ってみたい方は、小林市須木庁舎地域振興課(TEL.0984-48-3111)まで。

加久藤火砕流(かくとうかさいりゅう) 火山細砕流の略。高熱のガスと火山灰の集合体。
溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん) 火砕流の熱で固まった火山灰の岩石のこと。
永迫奇岩群



114 小松原(こまつばら) 都城市
市の中央部、都城駅の南西に位置する。前田町願蔵寺(がんぞうじ)から神柱神社までの間には、たくさんの小松が生えている野原の丘があったことから、小松原と呼んだ。年見川沿いには島津領主の別荘(べっそう)があったが、明治4年(1871)になって、梅北にあった神柱宮を当地に移し、都城の総鎮守(そうちんじゅ)として厚く信仰(しんこう)されている。境内は神柱公園として整備され市民に親しまれている。

総鎮守(そうちんじゅ)大本の守り神。
神柱神社

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