091 崩瀬・平瀬(くえんせ・ひらせ) 綾町
綾町中心部(役場)から西北に県道田代八重綾線を6キロメートル余りさかのぼった所の、綾北川V字渓谷の流域地名。昭和45年(1970)4月に急傾斜地崩壊(ほうかい)対策危険区域に指定された。「崩瀬」は崖地を流れる瀬の意味。崩瀬の1キロメートルほど下流にある「平瀬」も「崩瀬」と同様の地形であり、同様の意味であろう。あるいは、ヒラ(急傾斜地)・セ(狭い所)、またはヒラ(平らな)セ(瀬)の意味も考えられる。
綾北川V字渓谷の平瀬



092 久木ヶ尾(くきがお) 綾町
綾盆地綾北川下流北部の山地の地名。久木ヶ尾はミケイリヌノミコト(三毛入野尊)が数年間宮原に住まわれた時の地元の伝説にちなむという。
ある日、ミケイリヌノミコトが川で釣りをしていると、上流の淵(ふち)近くに住む童女の化身(けしん)が現われて助けを求めた。ミコトはさっそく淵に住む大蛇の九鬼王(くきおう)を退治したが、不思議にも一夜にしてもとの体にもどり、また悪事をなした。困ったミコトが天の神にうかがいを立てると、「頭部と手足を百尋(ひゃくひろ)離して埋め、頭部を埋めた所にお宮を建て祭事に少女を奉仕させよ」とのお告げがあった。その通りにすると、九鬼王の怨霊(おんりょう)はしずまり、童女の化身はもとの姫の姿にもどり、ミコトの妃(きさき)になったという。九鬼王にちなむ久木ヶ尾の淵は、今は灌漑用の池として使われている(公民館報「亜椰」平成3年12月、松元捨男)。
久木ヶ尾は洞穴のある尾根、あるいはクヌギの生えた尾根の意味であろう。

百尋(ひゃくひろ) 尋(ひろ)は長さの単位で、両手を左右に広げた時の手先から手先までの距離。普通1.5〜1.8メートルぐらい。





093 郡司分(ぐじぶん) 宮崎市
郡司分は建久8年(1197)の『建久図田帳』に出てくる地名。郡司(ぐんじ)は律令制(りつりょうせい)の郡政務を執った役人で、国司の下にあって郡を治めた役人のことをいう。郡司分は国富荘の中心となった地域だったので、郡を治める役人がいたことが考えられる。当時の役人郡司にちなむ地名と思われる。現在でも郡司姓の人がいるが先祖は郡司の役にあった人といわれる。


094 楠見(くすみ) 宮崎市高岡町
広大な広葉樹林(こうようじゅりん)が広がり、昔は林業が盛んで集落周辺に炭窯(すみがま)があり、山からあがる煙はこの地区の風物詩となっていた。昭和30年代までは樟脳(しょうのう)工場があったことから、広葉樹林帯にはたくさんのクスノキ(楠)がおい茂っていたと思われる。植物分布から付いた地名ではないだろうか。今は竹林が楠見の代名詞になっていると地区の人々は語っている。
楠見地域



095 国富(くどみ) 宮崎市  
鎌倉時代初期の日向国には、島津荘(しまづのしょう)、宇佐宮領(うさぐうりょう)、国富荘(くどみのしょう)の三大荘園があった。国富荘は面積1,502町で、宮崎郡・那珂郡・児湯郡にわたって分布し、宮崎平野の中心部にあった。その中に国富本郷240町があり、この国富が地名なったものである。


096 国見山(くにみやま) 都城市高城町 
国見峠ともいう。有水川上流岩屋野から約4キロメートル登った標高407メートルの、薩摩街道※2では最も高い所である。慶長5年(1600)関ヶ原の役後、島津義弘が去川の関の前面に関外4郷(高岡、穆佐(むかさ)、倉岡、綾)を設け、高岡、穆佐などと鹿児島との行き来が多くなったころからの地名であろう。この山の位置から広く国が見渡せる意味である。
去川の関を通って高岡や上方(かみがた)へ向かう旅人は、ここから都城盆地や、はるかに桜島をながめ故郷との別れを惜しみ、薩摩へ向かって旅してきた人は、眼下に広がる故郷を見て喜んだという。ここは旅人の休けい所であり、昔は茶店もあった。国見山(岳)、国見峠は全国的に分布する。
国見峠の山の神



097 倉岡(くらおか) 宮崎市 
『三国名勝図会』には、「同地の諸所の丘には土を穿(うが)いて窟居(くっきょ)した跡が多くあり、倉岡の名もこれによって起こった」と記されている。つまり、丘に倉(=家?)が数多くあったことが倉岡の地名由来であるが、地名の意味からは倉は「崖」の意味が強い。これに従えば倉岡は崖で切り立った丘陵地を意味し、『三国名勝図会』の示す倉岡古墳群の丘に名付けられたものと思われる。


098 蔵西(くらにし) 国富町 
東諸県各地と宮崎地区をつなぐ水・陸交通の要所は太田原であった。明治30年に木製の橋が架けられたが、それ以前は渡し舟が活躍した。現在の橋から200メートルほど下に太田原の「渡し場」があり、そこから水路が引かれ西北に倉庫が立ち並び、「蔵西」と言った。今、太田原橋の西側には「大蔵元」、さらにその西隣に「万所」=政所(まんどころ)=船着場倉庫の事務所などの字(あざ)名が残っている。

「渡し場」 「渡し舟」が発着する場所
三名川から蔵西まで水路があった



099 蔵原町(くらはらちょう) 都城市
「くらバイ」とも呼び「倉原」とも書いた。都城では原を「ハイ」とも呼び、野や畑の広く続いている所をいう。地名の由来は江戸期の「倉之馬場」に発するものであろう。この中にポツンと米倉ができたから蔵原と呼んだ。今は病院が多く住宅地となっている。
蔵原



100 蔵元(くらもと) 都城市高崎町
縄瀬地区の大淀川の左岸、高城町との境に蔵元橋が架かっている。藩政時代、高崎郷(たかさきごう)の縄瀬村は、鹿児島の垂水(たるみず)島津領に属(ぞく)していて、1万5千石の内1千3百石余の飛び地(とびち〜藩外の領地〜)であったことがある。そのための大きな米倉があったので蔵元という地名が生じたという。平成15年(2005)地元の高齢者会により、蔵元橋の近くの三さ路の角地に「蔵元地名之碑」の記念碑が建立されている。
蔵元「地名の碑」



101 栗須(くりす) 野尻町 
三ヶ野山の中心は栗須で、城の下川の下流は左カーブになっており、そのような地形の所が栗須と呼ばれた。東麓の岩瀬川沿いにも小字(あざ)黒須があり、小林にも栗須野があり同じような地形である。



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