237 前田(まえだ) 都城市高崎町 
霧島山麓の湧水が高崎川となり南東に流れ、国道221号バイパスが縦断している。水量豊かな水田は古代から開発され、昔、高天原の神々の食する稲田が設けられていたことから「前から開けていた田」の意味で前田の地名が付いたと言われる。以前は麓(ふもと)とも呼ばれた。前田橋の近くにある高崎麓小学校にその歴史が感じられる。麓は島津氏領では、地頭館(ぢとうやかた)を中心とする武士の集落である。山之口町の麓も同類である。明治の中頃に高崎村の発足で、役場が大牟田地区に設置されるまでは数百年にわたり、政治、行政の中心地であった。旧国道沿いには以前の郷士屋敷(ごうしやしき)の町並みの名残りも見られる。
集落の中心地にある郷士屋敷



238 真方(まがた) 小林市
『日向地誌』には、「本村は元禄(1240〜1688)の頃は、大別府村と二つに分かれていたが、いつかはっきりしないが、後に合併して真方村となった」とあり、かつての麓のあった所といわれる。地域の中心部であるところから、このように呼ばれてきたと思われる。


239 牧の原(まきのはら) 都城市高城町
大井手の北側高台一帯を牧の原という。前方後円墳3基と円墳13基の県指定古墳群と髪長媛のブロンズ像で知られている。
牧の原という地名は髪長媛の父牛諸井(うしもろい)の牧場がここにあったから牧の原といわれるようになったと考えられている。高崎町の古墳群の中に小牧という地名があり、野尻町に牧の平という地名が残されているが、同じ頃の牧場跡ではないかと思われる。
牧の原にある髪長媛のブロンズ像



240 間越(まごえ) 宮崎市 
間越、間越前、間越後と三つの地名が南北に連なっている。越は峠道とか越える場所に付けられる地名と言われる。間越の西側は水田が広がり間越はやや高くなっている。間(ま)は馬、真、万などを用い、真のという意味や場所を表す意味があるという。小高い丘を越えるということから付いた地名と思われる。


241 松山(まつやま) 宮崎市 
大淀大橋の北詰(きたづめ)一帯の地名であり、藩政時代には瀬頭村の字(あざ)地だった。江戸時代末期の絵図には、この地の大淀川左岸に松林が描かれており、『日向地誌』にも根固め松・竹のある堤防があったことが記されている。松林のある堤防(=小山)があったことから寛永年間(江戸時代初期)に松山と呼ばれたとの説がある。


242 的野(まとの) 宮崎市高岡町 
周囲を山林に囲まれ、その裾野(すその)に水田地帯が広がっている。この地は、明治の初めまで薩摩藩領であった。地区の人々は、西郷隆盛の家来が「的場」(まとば)として弓の練習をしたことから「的野」と呼ばれるようになったと伝えている。
的野地域



243 馬登(まのぼり) 高原町
伝説では、狭野尊(さののみこと〜神武天皇〜)が、東に向かって旅立たれる時、住民が馬を献上(けんじょう)した所という。迎(むかえ)という所があるが、狭野尊をお迎えした所という。神話・伝承をもとにした地名である。



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