244 三ヶ野山(みかのやま) 野尻町 
薩摩方言ではずっと「みかんやま」と呼ばれてきた。そのせいか、古文書には「密柑山」あるいは「甘柑山」と記されているものもあるが、当て字であろう。
三ヶ野山には、77の小字(こあざ)があり、そのうちの一つに三ヶ野山がある(ここは現在アサヒサッシ工場とアルス工場の間になる)。かつて、この付近は一面の山林で、三つの森に分かれ、その中に祠(ほこら)が三ヵ所祭(まつ)ってあった。そこは三方を山に囲まれ、その向こうに霧島の山が望まれる。霧島信仰の一つとして三つの山からも霧島を望むことができるので、三ヶ野山と言われるようになったと伝えられる。
この山林は次第に開墾されて畑地となり、現在の姿になったといわれる。かつての三つの祠は、現在でも北八所の永迫家に、氏神として祭られているという。三ヶ野山氏が栗須(くりす)を中心に統治していたので、そう呼ばれるようになったとの説もある。


245 水窪・水久保(みくぼ) 綾町
綾盆地の西部、綾南川V字渓谷に入り込む所の左岸沿いに水窪(みくぼ)があり、大正4年(1915)に発電開始の綾南発電所がある。また、水窪の北側の広い台地上には戦後入植地(にゅうしょくち)の水久保(みくぼ)がある。久保は窪(くぼ)の当て字で、ミクボは水の湧く窪地の意味である。今も小さな湧き水の窪地が何ヵ所もある。綾北川の下流、綾町と国富町との境の川久保は川沿いの窪地の意味である。
綾町南俣の綾南発電所(大正4年発電開始)



246 三股(みまた) 三股町
三股町のいわれは、明治3年(1870)高城郷(たかじょうごう)が上三股郷(かみみまたごう)と改められ、勝岡郷(かつおかごう)と梶山郷の二つの郷を合わせて下三股郷ができたことから生じた。
明治5年(1872)樺山(かばやま)村、宮村、蓼池(たでいけ)村、餅原(もちばる)村、長田村の五村が三股郷となり、明治22年(1889)三股村となった(5村は大字(あざ)名として残った)。明治23年三股町となった。
三股町中心街 三股町役場



247 三松(みまつ) 小林市 
かつては、いずこにも街道筋には松並木があった。ところが後にはこの地域の中心部だけ三本になってしまったという。そこから三松という名が付いたといわれる。三本松の意味であろう。


248 宮王丸(みやおうまる) 国富町
特別な宮の一郭(かく)をなす地名といわれている。丸は区切られた土地のことである。本庄台地の東の突端部に位置し、北村と南村から成立っているが、村の中心の場所に大原神社があるので、この一郭をさしたのであろう。お城でも一の丸、二の丸などの同語がある。創建は天文10年(1541)頃と言われている。
また、この地は県内で唯一の藺(いぐさ)栽培と加工が昭和の終わり頃まで行なわれた所である。『日向地誌』によると、藺の栽培・加工をする農家が90戸、加工品は丸藺のござなどが1600枚、七島藺(しちとういぐさ)の蓆(むしろ)など5,000枚が作られていたと記されている。

藺(いぐさ) イ(イグサ)茎を畳表やゴザの材料にした。また、茎の随(ずい)を燈心にしたのでトウシンソウとも言われる。
地区の中央に大原神社がある



249 都城(みやこのじょう) 都城市の市名
初代領主の北郷資忠(ほんごうすけただ)が、文和元年(1352)足利尊氏(あしかがたかうじ)から島津荘内(しまづしょうない)に北郷(今の庄内・山田)300町歩を与えられ、山田の古江に治所を設けた。二代領主北郷義久(よしひさ)は、天寿元年(1375)神代(かみよ)の時代に神武天皇(じんむてんのう〜初代の天皇〜)の宮居(みやい)の跡と言われる「南郷都島(みやこじま)」(今の城山辺り)に城を築いて移住したので「都之城(みやこのしろ)」の名が起こり、その後、都城(みやこのじょう)の名の起源となったという。元和元年(1615)幕府の一国一城令で廃城となり、城主は今の市役所辺りに領主館を建て移住した。その後、城山公園として整備され、本丸跡には歴史資料館が建てられている。宮丸、都原、都島も神武天皇伝承にちなんだ地名であろう。
本丸跡は歴史資料館になっている



250 宮崎(みやざき) 宮崎市 
神武天皇が日向の国に居られた時代に、宮居(御殿)を置かれた所を宮崎の宮と称したので、そこから起こった地名と伝えられている。伝承では、宮居の地は宮崎市下北方町の皇宮居(こぐや)という所。宮の前に開けた土地であるから、宮崎というようになった。前・先は崎と同義で「さき」と読む。奈良時代の神護景雲(じんごけいうん)2年(768)7月に「日向国宮崎郡の大伴人益(ひとます)が白亀を献上した」ことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』※1に書かれている。この時期、すでに宮崎の地名があった。
皇宮屋



251 宮水流(みやづる) 宮崎市高岡町 
地元では、瓜田川(うりたがわ)が粟野神社の横を流れており、「お宮の横を清らかな水が流れる」ということから「宮水流(みやづる)」と呼ばれるようになったと伝えられている。水流(つる)は川の流域のことを意味する。また、昔の交通・輸送は大淀川を利用していたので、船着場のある宮水流は商店街として大変にぎやかだったらしい。古い文書に「宮津留」の地名があるが、津は港を意味するので、その地名で呼ばれたのであろう。それがいつから今の宮水流(みやづる)になったかは、分からない。
下倉 粟野神社



252 宮ノ下(みやのした) 宮崎市
有田の鎮守白髭神社(しらひげじんじゃ)の下ということから付いた地名。白髭神社は工藤祐経が日向国の地頭に任じられたとき、同地方の鎮守(ちんじゅ)として勧請(かんじょう)したものと伝えられ、鎌倉幕府から社禄50石が給された。後にこの地は島津氏の所領となっている。
白髭神社



253 宮ノ谷(みやのたに) 綾町 
綾盆地西南部の綾南川右岸沿いの集落名。宮ノ谷はお宮近く谷間の意味である。かつては三宮(みつのみや)大明神が祭られていたが、流鏑馬(やぶさめ)中に人馬とも馬場尻の池に沈む不慮(ふりょ)の事故があり、天和元年(1681)に錦原台地の東部に遷宮(せんぐう)された。遷宮以前は五ヶ所であったが、以後は元宮神社を祭り宮ノ谷(小字(あざ)名)という。宮ノ谷橋の所に「宮ノ谷地名発祥(生)の地」の石碑がある。なお、三宮大明神は明治5年に綾村内(入野村は含まれず)の25社を合祀(ごうし)して綾神社となった。
宮ノ谷地名発祥(生)地石碑



254 宮ノ馬場(みやのばば) 宮崎市
跡江城は生目古墳群がある丘陵の東端にあった。築城年、廃棄年は不明。建武3年(1336)浮田荘の預所(よは)瓜生野八郎左衛門尉がこの城にいた記録がある。宮ノ馬場は跡江城の北1キロメートルにあり、馬術の鍛錬場であったと思われる。しかし、馬場という地名は通路の名称にも使われるので宮ノ馬場は跡江神社前の通りということも考えられる。
跡江城跡



255 宮ノ前・宮ノ後・宮ノ元
(みやのまえ・みやのあと・みやのもと) 
宮崎市 
恒久神社に関係する地名。恒久神社は寛治4年(1090)の創建で、コノハナサクヤヒメノミコト・ニニキノミコトなどを祭る。社伝によると、毎年9月9日に都万神社(西都市)に参り豊作を祈願していたが、寛治元年大雨が降り大淀川が増水して川を渡ることができなかった。この年から大淀川右岸の村々は五穀が実らず疫病が流行した。それで都万神社から神を勧請して一ノ宮大明神を創建、明治4年(1871)には恒久神社と改めた。神社があるあたりが宮ノ元、その前後が宮ノ前・宮ノ後である。


256 宮村(みやむら) 三股町 
この地区には御年神社(みとしじんじゃ)や諏訪(すわ)神社があるので宮村と呼んだのではないかと思われる。昔は「宮」(みや)といっていた。藩政時代になると寺柱(てらばしら)村と呼ばれた。今の宮村は、寺柱、大鷺巣(おおさぎす)、小鷺巣の三つの地区から成っている。これは明治5年(1872)のことだと言われている。宮村小学校は、栄仁寺(えいにんじ)の跡に明治8年(1875)に建てられた。宮村と同様に寺村の地名も各地にある。

寺柱(てらばしら) 三股町  
三股町立宮村小学校の近くに寺柱という地名がある。地名のいわれはさだかでないが、室町時代から使われていたようである。江戸時代に関所が置かれ、今は「寺柱関所跡」という石碑が建てられている。この番所より先は牛之峠(うしのとうげ)を越えて飫肥(おび)領に続いていた。江戸時代は都城と飫肥を結ぶただ一つの道で、幕府の巡見使(じゅんけんし)もここを通って飫肥領に行っていた。9回通った記録が残されている。

巡見使(じゅんけんし) 徳川幕府の命をうけて、各藩の  様子を見てまわる役人。
宮村小学校前



寺柱関所跡



257 名田(みょうで) 宮崎市
『日向地誌』には、大淀川が瓜生野方面から南へと湾曲する左岸あたりに明治8年(1875)まで名田村があったと記されている。現在県道宮崎須木線沿いにある名田神社(みょうでじんじゃ)がその地名を今に伝える。名田(なた)には、川岸の地を意味するとともに、名田(みょうでん)は所有者の名を付けた田の意味がある。同地においては前者が地名由来と思われる。
名田神社

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