263 面早流(もさる) 宮崎市高岡町 
昔は浦之名郷の中にあり、去川への大淀川に沿った集落であった。ここの川は岩石が多く、しかも高低の差が大きいので流れは激しく早流川(さるかわ)と名付けられていた。それに高岡郷の頃、薩摩街道から見ると流れの速い水面がキラキラと光っていたので、ここ一帯の集落は面早流といわれている。
面早流バス停



264 母智丘(もちお) 都城市 
横市に標高300メートルの丘陵(きゅうりょう)があり、母智丘という。元は餅丘(もちのようなおか)と呼ばれていた。丘上には大きな石が露出し、昔は石峰(いしみね)と呼ばれ、岩穴には白狐が住んでいたということで、稲荷(いなり)社も祭られている。明治のはじめに創建(そうけん)された母智丘神社があり、麓からの長い桜並木(千本桜と呼ばれる)は毎年桜祭りでにぎわう。
母智丘の桜祭り
稲荷神社



母智丘神社



265 本城(もとじょう) 宮崎市
古城の西の時雨(しぐれ)に本城という城があった。地名はこの城名による。この城は時雨の北東約800メートルの山頂にあり、自然の丘陵を利用して築かれた。築城年、築城者不明。古い城跡で、元禄11年(1698)10月に伊東氏の家臣川崎祐盛が建白した書に、「もし天下大乱の世になったら、中野の清武城を本城とし、この城を取り立てて支城として戦うべきである」と述べているほどで、要害堅固(ようがいけんご)な地に造られた城であった。
本城跡



266 元町・八日町(もとまち・ようかまち) 綾町
綾盆地の綾南川下流左岸沿いの江戸時代から栄えた集落。今はその面影もない。元町は元からの町・中心の町の意味、八日町は八の付く日に蔵(くら)の出し入れが行われたことにちなむ。江戸時代には薩摩藩の米蔵があり、昭和の初めまでは綾村の表玄関口であった。夕方白い帆を張った舟が綾南川を上ってくる光景はのどかな綾村を象徴する一幅(いっぷく)の絵であった。


267 森永(もりなが) 国富町 
モリ=盛り土がナガク続いているような地形の所をさして「もりなが」と呼んだといわれる。九州山地に続く台地の間を綾北川と綾南川が豊かな水を運び、合流点あたりの扇状地(せんじょうち)は水の便が良く、作物がよく出来た。『日向地誌』によると、森永とその周辺の竹田、須志田、深年、八代、綾の村々の一戸あたりの馬の平均飼育数は1.16頭である。このあたりでは牛馬の飼育が盛んで、合流点の近くの川原では明治37年頃から、昭和21年頃まで競(せ)り市が年2回ほど開かれてにぎわった。
本庄川の橋から見る森永地区



268 門前(もんぜん) 宮崎市
伊満福寺(いまふくじ)の門前に当たるので、このように呼ばれた。伊満福寺は山号を池上山といい真言宗、本尊は聖観音である。寺伝によると推古天皇の勅願所(ちょくがんしょ)として、推古天皇21年(613)に聖徳太子の命(めい)で百済国僧日羅上人(くだらこくのそうにちらしょうにん)が開山した。日向七堂伽藍(ひゅうがしちどうがらん)の一つ。中世には都於郡伊東氏、近世には延岡内藤氏などに保護された。明治4年(1871)に廃寺、同17年復寺した。
門前という地名は大塚町の長久寺前にもあり、同寺の山門の前ということである。お寺や神社の前にできる町を門前町という。

日向七堂伽藍(ひゅうがしちどうがらん) 日向七堂伽藍、日之御崎寺(白浜)、円南寺(加江田)、勢田寺(清武町勢田)黒坂観音、松崎寺(松崎)、伊満福寺(古城)、朝倉寺(金崎)、久峰寺(広瀬)
伊満福寺



トップへホームへ