258 六日町(むいかまち) 国富町
市(いち)の立つ日が町の名になった例である。本庄は天領になるとまわりの村や町からいろいろな物や多くの人が集まるようになり、物と物を交換したり、また余った物を売ることができるようになった。そこで、毎月六の付く日(6日・16日・26日)に市が立つ町を六日町、毎月十の付く日(1日・10日・20日)に市が立つ町を十日町(とおかまち)と呼ぶようになり、競い合ってよい町を作るように力を合わせた。町の名前と伝統は今も守られている。
市の立つ日が町名になった町



259 穆佐(むかさ) 宮崎市高岡町 
穆佐が歴史に現れたのは平安時代で、日向28郷の一つとして穆佐郷(むかさごう)とある。早くから開けた土地である。ビタミンの父高木兼寛(たかきかねひろ)の出身地でもある。「むかさ」のムカは「向かいの地」の意で、穆佐の低湿地帯をス(三角州)といい、川向こうからながめてこの地域を「ムコス」と呼んだのが、「ムカサ」になったといわれている。穆佐の漢音は「ボクサ」と読み「ムカサ」とは読めない。住民がわきあいあいと助け合う姿を願い、この漢字が当てられたのではないかといわれている。

高木兼寛(かねひろ)(1849〜1920) 旧穆佐村小山田出身  
郷土の誇れる世界的医学者で、当時、不治の病(ふじのやまい)とされていた「脚気(かっけ)」の予防・治療法(ちりょうほう)を確立した。ビタミンが発見される20年も前に脚気の原因は栄養の欠陥(けっかん)で、食事を改善すれば病気を治せるという「栄養説」をとなえ、ビタミン発見のもとを築いたのでビタミンの父と呼ばれている。
また、有志共立東京病院(現在の東京慈恵会医科大学病院)の設立・日本初の看護婦教育所を開設した。
ビタミンの父・高木兼寛像



260 牟田町(むたちょう) 都城市
ムタマチとも呼ばれる。北部は西流する年見川を挟(はさ)んで大王町と接する。牟田(むた)は湿地のことで、かつてこの地が湿地であったことによる。高崎町の大牟田や高原町の蒲牟田の地名と同様であろう。戦後、戦災復興事業(せんさいふっこうじぎょう)により湿地が埋め立てられ、住宅地に変わった。その後市内最大の飲食店街になり夜間はにぎわう。

戦災復興事業(せんさいふっこうじぎょう) 戦争の被害を直し、盛んにする。
牟田町



261 無田ノ上(むたのうえ) 宮崎市
牟田や六田は、湿地や沼地をいう。宮崎でもぬかり込む湿田をいう。川の近くや麓で山水がじめじめとしみ出てくる、ぬかった田をいう。本郷南方に上無田、富吉に六田という地名があるが、意味は同じである。
左の方の集落が無田ノ上



262 六野原(むつのばる) 国富町
六野原台地は昔「牧原」、「大原」、「中原」、「前原」、「出水原」、「牟田原」の六つの原野が連なっていたことから付いた地名といわれている。昭和17年に陸軍飛行学校が置かれることになり、ここに飛行場が建設されて福岡県太刀洗飛行学校木脇飛行隊が置かれた。
工事の始まりと共に数多くの古墳や地下式墳墓が見つかり、貴重な埋蔵文化財が発掘された。現在でも県立博物館などに展示されているものがある。広い平原は中世から伊東勢と島津勢の戦いの場となった。
飛行場を守るために造った陣地(トーチカ)


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