183 中河間(なかごま) 小林市須木 
集落の中央を県道が走り、それに沿って須木川が流れている。この川の両岸に人家があるので付いた地名と考えられる。麓(ふもと)と九瀬(ここぜ)の中間部(点)に位置しており、現在もここには中間姓の人々が点在している。
中河間には、その中に田代・高野谷の地名が残っており、田代は水田の意味で、田代山というのは、田に入れる肥料に山の草を採って入れたので(緑肥<りょくひ>)この草を採った山のことをいう。高野谷の高野は、荒野のことで、昔、荒れ地を開墾した所をいうが開墾奨励ということから、初めは無税地とした。


184 中霧島(なかきりしま) 都城市山田町 
元禄11年(1698)島津氏から徳川氏に差し出した『日向国覚書』(ひゅうがこくおぼえがき)の中に中霧島の名が出てくる。薩摩藩時代は安永郷(やすながごう)にはいっていた。鹿児島の側から見て、霧島山麓にある村々を手前の方から下霧島、中霧島、上霧島と見ていたので、この名前が残ったのではないか。明治22年(1889)宮崎県に町村制が施行(しこう)され、山田村、中霧島は山田村になった。明治30年(1897)代の谷頭一帯の台地は原野や畑作地帯だったが、前田正名(まえだまさな)の開田事業や、石川理紀之助(いしかわりきのすけ)の農民指導、大正2年(1913)の吉都線開通などによって開発整備され人口も増加し、町並みもできた。




185 永久津(ながくつ) 小林市 
永久津、永久井野などの地名があるが、川に沿って長く広がる土地ということから、付けられた地名であると考えられる。


186 長田(ながた) 三股町
沖水川上流の地域で美しい峡谷の長田峡(ながたきょう)があり、ヤマメの養殖場(ようしょくじょう)やつつじが丘椎八重(しいばえ)公園、しゃくなげ園などあって、都城市近郊(きんこう)の行楽地となっている。渓谷に沿って長く入り込んでいる土地という意味であろう。



187 永田(ながた) 小林市須木
国道265号で小林から須木に入ると新町で、旧須木村の一番の繁華街であった。経済・文化の中心であるが、明治の末頃までは、わずかにかやぶきの民家が10数軒点在したに過ぎなかった。県道の開通とともに車馬の交通も激増、人家も次々と立ち並んで現在のような新しい町となった。永田集落は村の中心を占めているが、地形から永い田のあったことにちなんで、そう呼ばれるようになったといわれる。


188 中水流(なかづる) 宮崎市 
現在の祇園3丁目の旧字(あざ)名であり、大淀川に面する土地の地名であった。鶴島の旧字名「下水流、上水流」などと同様に、川辺の地や水路を「水流」ということに由来すると思われる。中水流と出水口との間にはかつて「上鶴」という地名のあったように、水流(つる)は「鶴、津留、都留」などの文字に変わることもある。中水流も現在は「中鶴児童公園」としてその名を残している。


189 永野(ながの) 都城市山之口町 
山之口町麓(ふもと)に属(ぞく)しているが、高城町有水に近く、この地区の小・中学生は明治以来有水小・中学校に通っている。青井岳の峠を越える道が東岳(ひがしだけ)川沿いに走っている。細長く伸びている土地の状況から付いた名前であろう。

永野の墓地に行って目に付くのは、ほとんどが伊集院姓と永野姓の墓であることである。これは永野が薩摩藩警備(けいび)上、重要な所であり、そのために伊集院姓の郷土(ごうし)と、永野に移り住んで永野姓を名乗った郷土を中心とする集落であったことを物語っている。
永野の墓地

島津寒天製造所跡(しまづかんてんせいぞうしょあと) 都城市山之口町 
幕末に薩摩藩が浜崎太平次(はまさきたへいじ)に寒天(かんてん)を製造させた製造所跡が発掘(はっくつ)され、大事に保存されている。ここ永野、星原のほか石山でも製造し、中国、ロシアに密輸(みつゆ)していた。
復元された製造所跡



窯 跡



190 中之坪(なかのつぼ) 宮崎市
坪とは深くえぐられた地形や窪地(くぼち)をいう。中之坪は本庄川と三名川が合流する所なので、川が氾濫(はんらん)して水田を崩(くず)すことが度々あったと思われる。さらに、同地内に窪田(くぼた)という地名もあるが、窪は窪んだ所という意味があり、中之坪と同じように川の氾濫で耕作地が崩壊(ほうかい)したことから付いた地名と思われる。


191 中村(なかむら) 宮崎市 
「中」は地域の地理的な中央、政治的・行政的・経済的な中心地をいい、地域の中央にある「村」を中村、本村、本郷、元郷などと呼ぶ。中、仲、那珂、那賀と同義語である。中村町は太田村の中の地名。近世は鵜戸街道飫肥街道が通り、また、大淀川を利用した物資の交流で商業の町として栄えた。町の起こりは、中世末、島津氏が伊満福寺の門前町として作ったという。江戸時代は延岡藩領で、毎月市が開かれ多くの職人もいた。太田直三郎や岩切与平などの豪商が町を治めていた。

鵜戸街道 宮崎市の大淀川右岸から神宮までの約45キロメートル。
江戸時代は「鵜戸神宮往還」といわれた。



192 中山(なかやま) 宮崎市高岡町
縄文時代からの生活の跡などがあることから考えたい。北部低地の水田と南部畑地の間に森や集落があり、そこら一帯を中山と呼び地名として拡がったものと考えられる。それで、江戸時代以前から中の山と呼ばれていたものと考えられる。
中山古墳



193 流合(ながれあい)・吐合(はきあい) 宮崎市 
水流川が大淀川に流れ込み、合流する所の地名。川の流れが合うという意味で宮崎県内では吐合(はきあい)ということが多い。全国的には渡合とか土合といい、吐合や流合と同じ川の合流点である。近くに水流(つる)の地名がある。



194 奈佐木(なさき) 小林市須木
ナセ(斜)キ(場所をいう接尾語)の転訛(てんか)。傾斜地(けいしゃち)の意味であると考えられる。戦国時代にはここに山城である奈佐木城(那佐木城・奈崎城)があり、明治初年まで寺もあった。現在は奈佐木城址公園(じょうしこうえん)が作られている(平成14年完成)。

山城 山の形を利用して造った城で、山頂に盛り土をしたり石垣を築いて、土累(どるい)、柵(さく)、塀(へい)、掘(ほり)などで守りを固めたもの。山城では、山の麓の川も守りに利用していた。山城は、いくつかの城(くるわ)で構成されることが多く、それらをまとめた城全体の大きな名前があった。
「くるわ」はそれぞれ独立し、簡単には城全体を落とせないようになっていた。



195 夏木(なつき) 小林市須木
本庄川(綾南川)と九瀬(ここせ)川の合流点に沿って家が散在している集落である。この二つの川が交(まじ)わって、ちょうど釘の形のような丁字形となっているので、そこを古くから釘水流(くぎづる)と呼んでいる。なぜ夏木と呼ぶかについては、古老にもその記憶がないとのことで、はっきりしない。夏木と中河間(なかごま)との間を「川内(かわうち)」という。ここは山越えで、城越(じょうこし)と呼ばれていた。


196 波島(なみしま) 宮崎市
波島は昭和53年に誕生した新しい町名で、大淀川左岸北側の砂列上で阿波岐原町に隣接する。波島の言葉に広島や大島などと同じく洪水時にも島となっていた場所や波をかぶるような島を考えてしまう。しかし、実際は阿波岐原町の「波」と大島町の「島」から成る合成語で、新町誕生に際して地域住民の投票によって名付けられた。


197 縄瀬・塚原(なわぜ・つかばる) 都城市高崎町
高崎川下流地域の左岸から大淀川左岸の観音瀬(かんのんぜ)一帯の地域を縄瀬という。大淀川の川の瀬に漁猟(ぎょりょう〜魚取り〜)の縄張(なわばり)をする所が多いことから、縄瀬の地名が起こったという。瀬というのは、川底の浅い川の意味であり、高崎町内には観音瀬の地名もみられる。
地域内の塚原(つかばる)の地名は、古代の古墳群や地下式古墳群が、いろいろ残っていることから付けられた地名である。山田町には万ヶ塚、宮崎市には大塚の地名も見られる。
大淀川から縄瀬小学校をのぞむ



198 七日市(なんけち) 都城市高城町 
高城中央公民館東側の旧薩摩街道に沿って七日市(なんけち)と呼ばれる地名がある。これは南北朝時代肝付兼重を高山へ敗走させた畠山直顕(ただあき)が敵・味方の戦死者を供養(くよう)するため建てた高称寺(こうしょうじ)付近で、7日の日に市(いち)が開かれるようになって名付けられた地名である。

旧薩摩街道 鹿児島から福山、都城、高城、国見峠を通って去川に出、高岡から佐土原に通じていた藩政時代の幹線道路。
七日市と高称寺跡



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