199 錦原(にしきばる) 綾町 
錦原は綾盆地に西から東へ突き出た標高70メートルの洪積台地。上代の頃は居住の中心地で、古くは吉井原といった。『日向地誌』に「原野 錦原…相伝フ古ハ吉井原(ヨシヰ)ト呼シカ後今ノ名ニ改メシト」とある。『三国名勝図会』には「錦原 百穀植ゑざることなし、其花五彩をなして鮮やかなり、故に土人其原野を錦原といふ、和泉式部の語より出たとかや」とある。和泉式部は平安中期(977年頃〜1036年頃)の恋愛経験や伝説の多い歌人。11〜12世紀の頃には錦原に青・黄・赤・紫・緑の五色の美しい花々が咲いていたのであろう。


200 西能登越(にしのとごえ) 宮崎市  
天文10年(1541)、都於郡伊東氏(とのこおりいとうし)に謀叛(むほん)を企(くわだ)てた長嶺の長倉能登守(ながくらのとのかみ)は、飫肥の島津氏の援護を得たが、伊東義祐に討たれた。それで付いた地名という。しかし、天正15年(1587)に曾井で謀反をくわだてた領主の伊東祐兵に討たれた漆野能登守(うるしののとのかみ)という武将もいる。ただ、能登は狭い所に付けられる地名でノド(咽喉)と同源といわれ、野登、野遠、納戸などの地名も同じという。また、ヌ(沼)とト(処)で湿地を表すともいう。能登越は地形的には青柳川があり、その左岸は丘陵(現在団地)があり、対岸は天神山から続く丘陵がせまり狭い地形である。また、川も流れているので湿地だったことも十分考えられる。
能登越



201 仁田尾(にたお) 宮崎市高岡町 
地形の特徴から付いた地名と思われる。「仁田(にた)」は谷間の湿地の意味で、「尾(お)」は山の尾根・峠を意味する。ここは仁田尾川の低地と奥深い山々に囲まれた地形である。昔、山の木材を切り出すのにトロッコ鉄道が敷かれていた。山に向かうときは数十匹の犬が引いていたが、後には機関車に変わった。対岸の面早流(もさる)が貯木場で、ここから大淀川河口へ運ばれた。
仁田尾川と大淀川の合流点



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