123 椎屋(しいや) 綾町
綾町中心部(役場)から西北に県道田代八重綾線を約4〜6キロメートルさかのぼったあたりの、綾北川V字渓谷沿いの山地の地名。大半は山林原野であるが、大正年間までは高地の椎屋原(しいやばる)に牧場があった。シイは断崖や地形のけわしい場所の上にある平地を表す地形語で(『宮崎県史民俗編2』)、「椎屋」は「椎谷」の当て字であろう。都城市の高崎町・山田町、宮崎市高岡町や延岡市北川町に椎屋、日向市東郷町や西臼杵郡日之影町に椎谷がある。



124 塩浜(しおはま) 宮崎市 
国道220号の宮崎南バイパスが宮崎空港の近くから90度カーブし、広い水田の中を南へ直進する。そのバイパスの左右に広がる水田の大半が、寛文2年(1662)の外所大地震(とんところおおじしん)で陥没し入り江になった。元禄2年(1689)の『南方村絵図』に入り江が描かれ、「入海」とか「先年田」「塩浜」などの表記がある。入海とは入り江のこと、先年田とは以前は田んぼであったこと、塩浜は海岸であったことが分かる。入り江は長い年月に埋められ元どおりの水田になったが塩浜の地名は残り、現在でも農家の人たちは田の位置を表す地名として使っている。


125 四家(しか) 都城市高城町 
四家は平家落人伝説(へいけおちうどでんせつ)の村である。島津斉彬(なりあきら)が嘉永6年(1853)高城を見て回った時の案内書『御道中記』(おんどんちゅうき)には、「ここに黒木・井上・永峯・二見の四家あり。むかし源平合戦の折、平家落人としてこの地に住むようになったということで四家村と言い伝えられている」と記している。そのうち井上清盛家だけに系図(けいず)が残されていたが、昭和35年(1960)の火災で焼失してしまった。ただ長野神社の大永2年(1522)の棟札(むなふだ)に「井上五郎左衛門尉平重頼(たいらのしげより)」と書き残されている。また、平八重(ひらばえ)城跡と井之(いの)城跡は、平家落人の籠城(ろうじょう)跡といい伝えられている。

系図(けいず) 先祖から代代のことを書き記した表。
棟札(むなふだ) 家の棟上げの時、建てた年月日や建築した人の名などを書いて棟木に打ちつける札。
籠城(ろうじょう) 城にたてこもること。
野尻側から四家井之城をのぞむ



126 志比田(しびた) 都城市 
大淀川と支流・横市川の流域に位置する。昔、ここには池があり湿田も多かった。当地の方言では「しみでる」を「しびでる」ともいうことから「水がしびでる田」が「しび田」になり,後に志比田と書き表すようになった。その後土地改良などにより土地が整備され、南部には志比田団地が広がっている。
志比田橋



127 下北方(しもきたかた) 宮崎市 
宇佐宮領宮崎庄の一部が鎌倉時代に「北方・南方・池内方」の3方に分かれ、その後北方が「下北方・上北方」に分かれた。北方(下北方+上北方)と南方の位置(方角)が逆であるとの指摘もある。なお、北(きた=喜多・木田など)には崖、自然堤防などの意味があり、北方は方角ではなく、丘陵地を意味していたとも考えると、確かに北方は宮崎平野の丘陵地である。同様の地名は各地にある。川軸にして東方、西方、北方、南方と分かれる所もある。
下北方にある平和台公園



128 下水流(しもづる) 綾町  
綾町中心部(役場)から西へ1.5キロメートルほど行った主要地方道宮崎須木線沿いの地名。『日向地誌』には「下津留 田2町1段1畝17歩原野1畝」とある。水流・津留は川沿いの鶴首のような小平地や田に水を引く水路(すいろ)の意味。綾町内には水流・上水流・水流前・桑水流などのほかに、綾南川(本庄川)と綾北川の合流地に水流(みずあらい)がある。かつてはよく洪水に洗われた所であろう。水流は宮崎・鹿児島県に多く、津留は大分・熊本県に多い。


129 宿神(しゅくじん) 綾町  
綾町中心部(役場)から西へ1.5キロメートルほど行った主要地方道宮崎須木線沿いの地名。『日向地誌』に飛び地(とびち)宿神の記載があり、今も祠が祭られているが、尾原の宿神の飛び地であろうか。地元では神の泊まった所(宿の神の意味)で、なぜか火の神を祭り、サンポコジンともいうと伝えられている。
宿神は「宿世(しゅくせ)結び(=縁結び)の神」の略語であろうか。国富町深年川上流愛染(あいぞめ)橋右岸山腹に祭られていた愛染権現(ごんげん)は「宿世結びの権現」といい、一つの御名(みな)になったという(『高岡名勝志』)。
愛染は逢初めの意味でもあろう。法華嶽薬師(ほけだけやくし)と和泉式部(いずみしきぶ)の出会いの「縁が結ばれた所」という。なお、シュクは端・境・外れの意味があるので、宿神には「境の神」の意味もある。
今も祭られている宿神さま



130 城ヶ崎(じょうがさき) 宮崎市 
大淀川下流右岸に栄えた商人町。中国などとの貿易が盛んな中世のころ、赤江港をひかえたこの地に太田七郎左衛門が開いたといい、曾井城の前(さき)が地名の由来という。近世は上方との交流で商業が発展し、太田・小村・南村などの豪商が町を治めた。豊かな経済に支えられ、商人たちの間には俳諧(はいかい)が盛んになり多くの俳人を輩出した。

赤江港 昔は、大淀川河口の南側一帯を赤江と呼んでいた。この赤江にあったのが「赤江港」で、江戸時代には、条件に恵まれた良港であった。
俳諧(はいかい) 仲間で集まって、最初の句に合わせて、次々と句を連作することを、俳諧と呼んだ。

城ヶ崎俳人墓碑群
城ヶ崎バス停から約150メートルの地に、俳壇で活躍した俳人たちの墓碑25基及び石経塚3基が集合している。江戸時代に活躍した城ヶ崎俳人たちの墓碑が保存されている。
城ヶ崎俳人墓地の墓碑群



131 城ノ下(じょうのした) 宮崎市 
跡江の丘陵(きゅうりょう)には生目古墳群(いきめこふんぐん)があるが、その丘陵の東端に跡江城があった。建武3年(1336)1月14日、南朝方の瓜生野八郎左衛門尉(うりゅうのはちろうざえもんのじょう)が立てこもる跡江城を、北朝方の土持宣栄(つちもちのぶよし)や伊東祐持(いとうすけもち)らが攻め焼き払っている。地名の由来は城があった丘陵の下にあるので、文字通り城ノ下になったものである。

城ノ下 城があった場所には城の下の地名が多い。
跡江城跡



132 城の下(じょうのした) 宮崎市 
大塚の中央に蓬莱山(ほうらいざん)という小さな山がある。平地に独立した山で、長久寺の八十八ヵ所が祭ってある。この山に、永徳(1381〜1384)の頃、県(あがた)(延岡)の領主土持宣弘(つちもちのぶひろ)が築いたという蓬莱山城があった。その城の下ということで付いた地名である。土持氏は古くからの豪族(ごうぞく)であったが、伊東氏に攻められて勢力を弱め、伊東氏が豊後に落ちた後、大友氏に滅ぼされた。
蓬莱山城跡



133 城ノ下(じょうのした) 宮崎市
北西に白糸城があったことから付いた地名。白糸城跡は有田の白髭神社(白絲大明神)の北西、大淀川右岸にあり、川に面する西側は崖になり、南・東・北は水田を配していた。応永年間(1394〜1428)、島津久豊(しまづひさとよ)が倉岡城とともに築き、穆佐(むかさ)城の支城であったといわれる。


134 城ノ下(じょうのした) 宮崎市
倉岡城の下ということから付いた地名。倉岡城は大淀川左岸の独立した丘陵を城構(しろがま)えしたものである。中の本丸を大城、南の一画を大森城、北の一画を旗掛松城(はたかけまつじょう)と呼んだ。この城は薩摩の島津久豊(しまづひさとよ)が応永年間(1394〜1428)に築いたといわれる。その後、伊東氏の城となり伊東氏48城の一つとなった。しかし、天正5年(1577)伊東氏が島津氏に追われてからは島津氏の所有するところとなり、吉利久金(よしとりひさかね)が城主になっている。慶長6年(1601)には伊東氏の兵が攻めたが退けている。大淀川を挟(はさ)んで白糸城があった。
倉岡城跡



135 志和池(しわち) 都城市  
大淀川上流左岸に位置し、地域の中央部を丸谷川が流れ、河川敷(かせんじき)は運動広場に整地されている。昔、城の北側近くにある鏡のように波が無く静かな蓮(はす)池をながめて、当時の雲林寺(うんりんじ)の僧が「志の和(やわら)ぐこと、この池のごとくあれ」といったことから地名になったと伝えられている。志和池地区のほぼ中央に上水流(かみづる)町・下水流(しもづる)町がある。この水流(つる)とは川原という意味で、水の流れている広い平らな土地ということである。川の上流を上水流、下流を下水流と名付け、上水流町の大淀川近くの小高い丘には志和池城跡があり、城山公園になっている。
志和地城跡(城山公園)



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