176 働馬寄(どうめき) 宮崎市
道目木、泥目木(どうめき)という地名が東北地方に多くあり、これらは川や滝など水の音にちなむ地名といわれる。千葉県に百目木(どうめき)と書く地名、石川県には百成(どうめき)の地名がある。「とど」「どおど(百百)」「とどろき(轟、等々力)」などの地名と同じ意味。また、轟、驫は車や馬がたくさんで「とどろく」意味を表した文字であるという。
働馬寄の近くに小さな川があったか、もしくは曾井城の近くということから、多くの馬が飼われていたとも考えられる。県内に轟、土々呂などの地名は多く見られ、いずれも水の音に関する地名である。


177 遠目塚(とうめづか) 綾町  地図2−C−5
綾盆地の中央に西から東へ錦原洪積(こうせき)台地が突き出ている。遠目塚は錦原台地西南部の地名。かつては馬などの屍体(したい)捨て場のあるさびしい所で、狐(きつね)が住みつき美人になって人をばかしたという。トウメは狐の別名で、遠目塚は狐塚(きつねづか)の意味である。県内でも珍しい地名で宮崎市南方町、えびの市原田にある。なお、狐塚は東諸県郡国富町本庄、都城市平塚町・山田町、小林市南西方などにある。

洪積台地 地質時代・第三期・更新世に形成された堆積平野が、その後の地質隆起によって、台地化したもの。



178 ドウメン(どうめん) 宮崎市
正確な場所は不明であるが、現在の祇園町と霧島町付近に位置した旧字(あざ)名である。「ドウメン」は全国的に散在し「道面、堂免、百目」などの文字が当てられ「どうめき」と同義である。川辺に多い地名で、水の「ざわめき→どうめき→どうめん」へ転訛(てんか)したとされる。同地においては、湾曲する小松川の水音を模(も)したものと思われる。



179 堂屋敷(どうやしき) 小林市須木
本庄川に沿って北上すると、ささやかな集落があるが、ここが堂屋敷である。集落の中央には薬師堂(やくしどう)があり、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)が祭られている。この薬師堂のあったところから堂屋敷と呼ばれるようになったといわれる。この辺りは昔の関所のあった所といわれ、ここには薩摩が辺路(へんろ)番所を置いて通行人の取り調べを行い、球磨(くま)地方から日向への取り締まりにあたったものであろう。

薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい) 人々の病気をなおし、災害から守ってくれるという仏。
辺路(へんろ)番所 本道以外の裏道などにに設けられた番所を辺路番所という。



180 轟(とどろ) 都城市高崎町  
太古の時代、都城盆地は広大な湖であった。姶良(あいら)火山の大噴火(約2万5000年前)で湖が埋まり、あふれ出た水がまとまって下流に流れた所が、現在の轟(とどろ)から下流の一帯であった。轟の対岸は高城町田辺地区であり、この両地区が接する地に、古代から落差が10メートル前後の滝があり、轟音(ごうおん)を発してとうとうと落水する状況から轟の地名が起こったという。
大正時代、轟ダムが建設されたが、上流の洪水被害が大問題になり、昭和になって撤去(てっきょ)された。
「轟ダム跡」記念碑



181 富吉(とみよし) 都城市山之口町 
富吉地区には古来三俣院の宗廟(そうびょう)的野正八幡宮(まとのしょうはちまんぐう)があり、この八幡宮を中心に門田、前田、油田など田園地帯を物語る地名も多く、三俣院の倉(くら)などもあってこの地方では豊かな地域だったので富吉といわれるようになったと思われる。

宗廟(そうびょう) 皇室の祖先を祭る宮。
富吉地区 安楽寺

的野正八幡宮(まとのしょうはちまんぐう)と
   「弥五郎どん祭り(やごろうどんまつり)」
都城市山之口町
奈良平安時代から三俣院の最も大事な八幡宮として敬(うやま)われてきた。今も昔の門前町のにぎわいや、三俣院の倉跡、御料田(ごりょうでん)などをしのばせる新町・蔵ヶ迫・油田・後田・角田などの地名が残っている。毎年11月3日に行われる弥五郎どん祭りには大勢の観客が訪れ、にぎわいを見せる。
平成元年(1989)文化庁は、弥五郎どん行事として国の無形民俗文化財に選択指定した。平成15年(2003)「弥五郎どんの館」が完成した。

御料田(ごりょうでん) 八幡宮でお使いになる田んぼ
弥五郎どん祭り 養老4年(720)、大伴旅人が隼人征伐をしたときの死者の霊を慰めたのが始まりと言い、「弥五郎どん」を先頭に行列は続く。
弥五郎どん祭り



的野正八幡宮



182 鳥居原(とりいばる) 都城市高城町、高原町 
国道10号を北に向かって、石山小学校前を通り過ぎて、バス停「香善寺入口」から上り坂となる。この台地を鳥居原と呼んでいる。ここは霧島山の真東に当たる地点で、昔から「霧島遥拝所(きりしまようはいじょ)」と名付けられていた。霧島山を拝むので、山に向かって鳥居が立てられていた。薩摩藩の歴代藩主も、ここを通る時は、乗り物から降りて遥拝したと伝えられている。高原にも鳥居原という地名がある。ここは、狭野尊(さののみこと〜神武天皇〜)が東方に向かわれる時、人々が鳥居を建てて見送った所と伝えられている。
鳥居原



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