024 浮島(うきしま) 国富町
県道南俣宮崎線のIT関連工場の西北側カーブ下の田の中に、木立に囲まれた小島があり、その昔本庄川から流れ着いたという弁天様が祭られている。御社(おやしろ)を造ると度重なる洪水にも水に浸からないので、「浮島」の地名になった。もともと弁天様は、豊作の神様として豊漁や豊年を願っていた。この地域では、娘に必ず三味線とともに手習い、礼儀作法を身に付けさせる風習が残っていたので、学芸の成就(じょうじゅ)を願って、娘を舟に乗せ、三味線を弾かせて参詣する神様になっていた。年頃の若い男女の見合いの場でもあったという。
水田の中にある浮島



025 浮田(うきた) 宮崎市
浮田の浮(うき)は蘋、宇木、宇喜、有喜などとともに泥深い地、湿地の意味がある。生目中学校の校舎を建設するためにボーリング調査を行ったところ、地下数十メートルまで泥であったので、昔はこのあたりは湿地であったと思われる。また、荘園制(しょうえんせい)の浮免(うきめん)や近世の浮地にちなむものもあるという。浮免とは中世の荘園で、税が免除された土地のことで、これらから浮田は湿田であったか、税を免じられた田であったと考えられる。

近世 鎌倉時代から戦国時代の終わりころまで。
中世2 秀吉の天下統一期ころから江戸幕府が倒れるころまで。
浮 田



026 牛之脛(うしのすね) 都城市
「牛之脛」は、元は西岳町の一部である夏尾町にある。その昔神武天皇が若いころ、このあたりを通ったとき、乗っていた牛が泥沼に入り込み脛(すね)から腹まで埋まってしまい、なかなか這(は)い上がることができずに苦労したという伝説から地名が付いたといわれている。
夏尾町にある牛之脛中心地



027 牛之峠(うしのとうげ) 三股町
牛之峠は、三股から南那珂郡(みなみなかぐん)へ通じる鰐塚山(わにつかやま)の尾根にある峠(とうげ)で、明治の末まで旅人が往来していた。尾根の東西が2里(8km)近くある坂道は、たいへん険しい急坂で、牛の力を借りなければ登れぬ程であったので、この名が起こったといわれている。

牛之峠論所跡(うしのとうげろんしょあと)
この峠の峰(みね)通りには、江戸時代に隣の飫肥藩が建てた「従是東飫肥領」(これより東は飫肥領)という石柱が残っている。薩摩藩が飫肥藩に抗議した両藩の境界論争(寛永4年・1627年始まり)で有名な場所であるから、三股町教育委員会が建てた「牛之峠論所跡」の標識もある。約40年間の論争を経て、ついに幕府の評定所(ひょうじょうじょ)の裁定により飫肥藩の勝ちとなり、薩摩藩はやむをえず従うことになった。

評定所(ひょうじょうじょ) 争いを解決する役所。
牛之峠境界の石柱



028 後河内(うしろかわち) 高原町
河内は全国的にある地名。地形的には、川の上流部で山地に囲まれ川が合流してくる所を河内という。後(うしろ)と付けたのは、高原から見て霞権現(かすみごんげん)のある山地の後(うしろ)にあたるから、後河内と呼ばれたのであろう。県内には、宮崎市に北川内、北郷町に北河内、木城町に石河内、高千穂町に河内などがある。


029 内山(うちやま) 宮崎市高岡町 
現在、高岡町の中心部を占める所にある。城山の南面あたりは、久津良(くつら)といわれたように火山灰に覆(おお)われ、今にも崩(くず)れそうな崖(がけ)や傾斜地が多かったと考えられる。周囲を山でかこまれているので、内山というようになったのであろう。
大淀川の流域にあったので、米の生産に適した土地ではなかったと思われるが、現在の内山地区は高岡郷が置かれて以来の努力の結果、豊かな水田の広がる地域となっている。
藩政時代は、現在の高岡小学校前の道路から北の天ヶ城一帯の高地を含めた飯田村などは、一つの地域として内山と呼ばれていたと考えられる。
内山にある穆園館駐車場



030 内山(うちやま) 小林市須木
奈佐木橋から横谷・須志原を経て、浦之名(うらのみょう)川に沿ってさらに下ると内山集落の中央に出る。今は高岡からの道路が通っているが、昔はほかの地区からの入会(いりあい)を許さず、自分たちの村のみで村中入会する林野であったことが、地名の起こりといわれる。

入会(いりあい) 一定の地域の住民が、共同で利用する土地のこと。



031 梅北(うめきた) 都城市
梅北川流域の農業地一帯を指し、農業を主に発達してきた。梅北の地名は、その昔、この地で栄えていた西生寺(さいしょうじ)の尋誉上人(じんよしょうにん)が中国に留学し、持ち帰ってきた梅の木を移植したことに由来するという。地域内には梅の木が散在している。益貫(ますぬき)地区の崖上には梅北城跡もある。
西生寺跡の石塔群



032 浦之名(うらのみょう) 宮崎市高岡町 
浦之名は、1600年に高岡郷が創設される以前は、野尻郷の内であった。今の野尻町から見た場合、浦(端の方)の意味で浦之名と呼んだか、または名(みょう)には普通名田(みょうで)の主の名があるが、浦と称する人の名田であったかも知れない。また、浦ではなく宇良,有良などの名も考えられるが定かではない。

名田 本来は、中世の荘園で、税金を納める土地の単位のことだが、次第に名主の名前の付いた田を言うようになった。
浦之名小学校前



033 瓜田川(うりたがわ) 宮崎市高岡町
瓜田川は、穆佐(むかさ)の西北部の山地から流れ出て宮水流地区で大淀川に流れ込む。この川は、山地の多くの谷川が合流して本流となる川で、ある年に豪雨(ごうう)によるうずまきの作用で、かなり大きな淵(ふち)ができたらしい。年数が経つうちに、その淵が埋まり開墾され「淵田」と呼ばれていたのが、いつしか「瓜田」(うりた)に転訛(てんか)した。こうして、この川は瓜田方面から流れて来るので、誰言うとなく「瓜田川」と呼ばれるようになったという。
瓜田ダム



034 瓜生野(うりゅうの) 宮崎市 
地元には景行天皇(けいこうてんのう)が同地で休息した際に、立派な瓜(うり)がなっていることに驚かれ「瓜生える野」と言われたことに由来するとの説がある。地名の意味からは「瓜生」には、瓜のように曲がった地形と湿地帯の二つの意味がある。かつては野首、柏田の台地にさえぎられた大淀川が瓜のように北に弧(こ)を描いて流れていたことに由来すると考えられる。
大淀川が大きく曲がる瓜生野地区



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