269 屋倉下(やぐらした) 宮崎市
曾井城跡の南にある。城の櫓(やぐら)の下に当たるのでできた地名。櫓(やぐら)は矢倉とも書く。武器を置く倉とか、四方を展望するために設けた高楼(こうろう)、または射撃のために城門・城壁の上に設けた建築物である。曾井城は高さがおよそ25メートルあったようだから、高楼であったと推測できる。
屋倉下



270 弥次川(やじがわ) 綾町 
水源(すいげん)は綾町錦原台地の西側山地で、錦原台地・野首谷・平地の開元(かいもと)集落を東流する一級河川で、錦原台地の大字南俣と大字北俣の境になっている。地元では耶治川と書きヤジュ川ともいう。ヤジは谷地(やち)のなまりで、ヤジ川は低湿地・谷地を流れる川の意味である。開元集落で浦田(うらんた)用水と合流し、途中から東流する郷鴫川(ごしきがわ)と南流する中坪川(なかつぼがわ)に分かれ、綾盆地東南部の灌漑(かんがい)用水となる。


271 安久(やすひさ) 都城市 
萩原川の支流に安久川がある。島津の祖の忠久(ただひさ)が島津の庄を治めるために、当地に南郷堀之内(なんごうほりのうち)の堀内御所(ごしょ)を設けた時、領内の安穏長久(あんのんちょうきゅう)を願いその内の2字をとって「安久」と名付けたという。堀之内御所(ほりのうちごしょ)の記念碑が立てられていた。都城地方の代表的な民謡の安久節(やっさぶし)も伝えられている。堀の内は、堀をめぐらせた館のある所を意味する。

堀内御所(ごしょ) 身分の高い人の住む建物。
安穏長久(あんのんちょうきゅう) 無事におだやかに暮らすこと。
安久節(やっさぶし)踊り



272 柳本(やなぎもと) 宮崎市高岡町
島津八代久豊が穆佐(むかさ)城主の時、ある年の正月に山で初狩りをした帰り、橋口の前の道ばたで休憩をした。一休みし、ここを発つ時ちょっとした思いつきで「柳を逆さにさしても根付くものと聞くが、狩りの記念にここに柳の枝を挿(さ)しておこう」と言って、道の西寄りの所に挿(さ)しておいた。この柳は翌春から芽ぶいてスクスクと伸びたという。そのことから、この地名が生じた。


273 梁瀬(やなぜ) 宮崎市高岡町 
早瀬などで川魚をとるための仕掛けを「梁・簗(ヤナ)」といい、その場所をヤナセという。ここは浦之名川の下流で以前は梁が仕掛けられていた。しかし、現在は幅は狭いがトラックでも通行可能な永久橋が架けられている。梁瀬の地名は各地にある。
梁瀬橋



274 柳瀬(やなせ・やなぜ〜本庄川にかかっている〜) 宮崎市
大淀川と本庄川が合流する所にある。ヤナは簗、梁、柳、魚梁などとも表記し柳が生えていることによる地名や、魚をとる梁にちなむ地名。また、畑の縁(ふち)の斜面や堤(つつみ)に付けることもある。柳瀬は柳が生えており、柳から付けられた地名であることは明らか。ここには柳瀬橋が架かっている。
柳瀬橋



275 山下(やました) 宮崎市高岡町 
藩政時代までの交通手段は、牛・馬や舟を利用する方法しかなかった。そこで、陸路では山越えの峠の下には集落ができた。高岡では、高城から山越えの薩摩街道と野尻から大淀川の急流を下った到着地点のあたりに集落ができた。そのような場所に山下の地名がある。峠の両側には集落ができる。このような集落は、峠下集落という。
山下バス停



276 山田(やまだ) 都城市山田町 
元禄15年(1702)頃は、黒池村、牧野村、是位村(ぜいむら)、小牟礼村(こむれむら)、下椎屋村、山菅村(やますがむら)、上中原村、瀬戸口村の九つの村であった。その後合併して山田村となったが、年月ははっきりしない。山田という地名は、山や田んぼの地形から名付けられたものと思われる。現在の山田支所付近が山田城跡である。
山田城跡(現山田支所)



277 山ノ城(やまのじょう) 宮崎市
古城の時雨、本城(もとじょう)の東2キロメートルほどの所に独立した山があり、その嶺(みね)に山ノ城という城があった。場所は古城小学校の近くである。この城は伊東祐時(いとうすけとき)の第7子、門川祐景の子孫が城主で山ノ城を名乗った。今はその城名が地名となった。
山ノ城跡



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