77. 岩瀬(いわせ)川

小林市木浦木から大淀川に合流する延長44.1kmの1次支川。『日向地誌』によれば、岩瀬口渡で普通は徒歩で渡るとある。客馬車が小林・宮崎間を行き来するようになったが、「コの字」形の橋のため馬車にとっては難所といわれていた。石瀬ともいわれ橋の下流、数百メートルまで川底が大きな岩盤になっている。このことから、岩瀬川と呼ばれている。この川は藻類のオオヨドガワゴロモの自生地である。


 野尻(のじり)大橋

県営岩瀬川ダムをまたぐ大橋であり、昭和42年(1967)に建設された。この大橋によって交通の便がよくなった。橋の名の「野尻」の由来は、霧島山系の末端の野原なので、野尻となったといわれる。太平洋戦争中、この橋の上流約500mに「ねむの里」と呼ばれる位置に石橋「戸崎橋」があった。ここに戸崎城跡があり、断崖絶壁(だんがいぜっぺき)が城の外堀の役目を果たしていた所で、戦時中に野尻町内に駐留(ちゅうりゅう)していた軍部が、非常事態が起こったら、この橋を爆破(ばくは)して町民の安全を守る計画があったといい伝えられている。旧道は狭くて危険度が高かった。

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 椎屋(しいや)大橋

野尻町と都城市・高崎町を結ぶ貴重な永久橋である。椎屋の地名から橋の名がつけられた。
この橋ができるまで対岸の氏益地区の住民は、約1km下流に架かっていた椎屋橋まで遠回りする不便さを体験していたが、この橋が架かって生活条件に大きな変化が生じている。椎という地名は崖の上にある平地を意味している。
最近、この橋と跡瀬集落への道路が整備され、交通の安全が確保されている。

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 二間(にけん)橋

県営岩瀬ダムが建設されることになり、野尻から高崎・高原へ通じる「渡し」に架かる橋が改善されるあおりで、もとの橋が消滅することになった。
川幅が約1.5間(約2m50cm)深くて恐いほどの青々とした川には、竹を数本並べた橋が架けられ、渡るたびに揺られて恐かった。その後、木橋に架け替えられ幅20〜40cmに表面を削って材木を並べて人馬・馬車が通れる丈夫な橋に改修した。この橋の長さが約4間(約7.2m)の橋となったが、川の幅を約2間(にけん)として橋の名前が付けられたといわれている。
この橋もダムに水没し、約1kmの上流に2代目・3代目が並んでいる。その後、二間橋は二度の改修が行われ、2代目二間橋は現在は使用されていない。

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 岩瀬(いわせ)橋

『日向地誌』によれば、岩瀬口渡で普通は徒歩で渡るとある。岩瀬川の名称が橋の名となっている。客馬車が小林・宮崎間を行き来するようになったが、「コの字」形の橋のため馬車にとっては難所といわれた。
浅い瀬を渡るため、人の助けを借りなければならない人は、一人一回五厘(りん)の銭(ぜに)を払ったといわれる。夏は渡し舟、冬は竹を並べて橋を架けたという。橋を架けるため竹を編み、石を詰めて橋の足をこしらえたものが小林側と野尻側に一個ずつ残っているのも珍しいことである。
昔、渋谷という殿様がいて、ある日、子供を背負って川端まで行き、何かを取ろうとしたとき、子供はスポッと抜けて川に落ちた。雨上がりの濁流であったので、子供はそのまま見えなくなった、という話が伝わっている。

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 栗巣野(くりすの)橋

小林から須木を結ぶ路線で、水流迫(つるざこ)の東に架けられており、谷の木地区ほか、東方地区の東側の便利をはかっている橋である。栗巣という地名からこの名が付いている。この地区には、六地蔵塔もあり、古くからの信仰の厚さを感じさせる。栗須のいわれは不明である。

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 地頭渕(じとうぶち)橋

対岸(たいがん)の穂屋下地区を経て、小林市街に入るため今の橋の上流約100mの位置に、竹で造られた吊橋があって渡るのが恐かった。その後、木橋を架けたが、小林市が地区の発展のため、農道を建設することを求め、10数戸の家が浄財を積み市に陳情した。橋が完成し、橋の名前を付けるとき地区民の情熱にうたれ、時の市長が特別に地区民の思いを橋の名前にした。(古老の話)これで東方を遠回りしないで町に出かけることができるようになったと喜ばれている。

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 浜野瀬(はまのせ)橋

本来岩瀬川であるが、上流に奇岩や景色の良いところが多いので、地区の浜野をもじり、清流をたたえる意味を含めて浜の瀬と呼んでいる。この名が橋の名となった。

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 猿瀬(さるせ)橋

明治18年(1885)の古文書によれば、「狭瀬渡(さぜわたし)」、後川内村、麓村、猿セ川、五十間…」とある。ここには橋がなく、この街道は荒襲(あらそ)をへて、鹿児島に至る主要な道路であるため、舟守(ふなもり)をいつもおいていた。「猿瀬渡し」は向かいが後川内村で、渡し船は1艘(そう)で明治30年(1897)に最初の橋が架けられている。古くからある猿瀬の地名が橋の名になっている。
その後、ダムの建設とともに度々架け替えられ、昭和42年(1967)に発電所のダムも水没したので、上流のダムの堤頂を猿瀬橋として造り替えた。現在の橋は、平成12年12月にできあがった橋である。交通量も多く永久橋として、柿川内〜小林線の分岐点(わかれるところ)に架けられている。

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 78. 石瀬戸(いわせど)川

野尻町東麓から岩瀬川に合流する延長5.5kmの2次支川。古代に、真幸(まさき)院と穆佐(むかさ)院との境界をなす要所の川であったといわれる。昭和中期に曲がりくねった未舗装の道路から、省営バス転落があった川である。
この川の支流には1級河川が合流している町の境界となる瀬戸にあるために、橋にもその名が付けられている。瀬戸は川が狭く瀬になったところの意味である。


 石瀬戸(いわせど)橋

昭和23年(1948)宮崎〜小林を結ぶ道路は、鉄道を建設する運動が実を結ばないため、自動車の時代がくるという感覚が強くなり、自動車道が希望されるように変化した。もともと明治時代に人力車(じんりきしゃ)・馬車を目標に造られた道であった。この道に最初の石瀬戸橋が昭和26年(1951)5月に架けられ、現在の橋の上流にしっかりとした形で残されている。昭和16年(1941)、山椒茶屋(さんしょうちゃや)の南下のバラス道のまがりくねった所から省営バスが転落し、死者3名を出す悲惨な事故を見ている橋である。瀬戸は、川幅の狭いところにある渡し(瀬)の場所を示す。橋名もこのことから付いている。古い昔から、大平山・青木の遺跡を持つ生活上大変重要な川に架かっている。
現在の橋は、『日向地誌』によると「菖蒲狩倉(しょうぶかりくら)」ノ山中ニ発シ野尻ト紙屋村トノ界に沿イ中流ヨリ東ニ向ヒ・・」とあり、水深は1〜2尺(30cm〜60cm)と記されている。

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 79. 大平山(おおひらやま)川

野尻町大平山から流れていることから、川の名が付いた。石瀬戸川に合流する延長1.2kmの3次支川。上流には古代の遺跡があって、肥後街道の一部となっている。広い原野が広がり、青木川を枝流にしている。



 80. 青木(あおき)川

野尻町紙屋から流れ、大平山川に合流する延長1.6kmの4次支川。ごく短い川であるが、大平山と同じように青木遺跡があって、古い時代にはすでに人が住んでいたと思われ、この地のいわれから名付けられている。アオキは、青々とした木が繁っているところに付いた地名である。アオキは牛の餌にもなる。西諸県の山中には、アオキの群生が多くみられる。



 81. 戸崎(とさき)川

野尻町三ヶ野山から流れ、岩瀬川に合流する延長7.5kmの2次支川。この川は角内川・相牟田川・切畑川・ちんもと川・大王川などと多くの呼び名を持っている川である。 大淀川流域でただ一つの「伏流する区域」を持っている川で、野戸谷には、町に供給する上水道の水源がある貴重な川である。下流には町内で最初に建設された発電所があった。戸崎は川の峡谷の入り口の意味があり、野尻大橋の右岸に戸崎城跡がある。



 82. 城ノ下(じょうのした)川

野尻町三ヶ野山から流れ、岩瀬川に合流する延長10.0kmの2次支川。天正5年(1577)8月、伊東氏48城の一つで落城した二の丸(野尻新城)の北側を外堀とする川である。上流では大谷川、栗須川、呉志貴川などと呼ばれ、流域では鉱泉を持っている。大沢津川・枯れ木迫川などが、九州電力によるダムに合流している。野尻城の下を流れるので、この名が付けられた。


 城の下(じょうのした)橋

この支川は、野尻城「本城と新城(2の丸)」の二つの城の外堀の役目も持っている。ごく短い流れである。城ノ下川に架かる橋であるから、この名がつけられた。昭和49年(1974)3月竣工。

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 田子(たご)の下(した)橋

城ノ下川流域には鉱泉水が豊富にあり、古くから湯客(風呂入りにくる客)が、薪(まき)を燃やして沸かして湯治(とうじ)する冷泉(れいせん)があった。湯は、きず・はれものなどに良く効き、評判(ひょうばん)が良かったが、経営者のつごうで廃止された。この湯の出入り口にかけられ、土地の名前が付けられている。平成7年3月竣工。

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 83. 大沢津(おおさわつ)川

野尻町山神から城ノ下川に合流する延長1.2kmの3次支川。城ノ下川の支流で、幾重にもつらなる九州山脈の枝脈に水源をもっている。沢の下あたりにできた集落の名前が川の名前になっている。



 84. 辻の堂(つじのどう)川

小林市細野から流れ、岩瀬川に合流する延長7.3kmの2次支川。県道104号で、この地域に戦争中軍馬補充部(のち種畜牧場)があった。後にここで全国植樹祭が「ひなもり台」で開催された。辻(道路がまじわるところ)付近には仏堂が置かれていたことなどから付いた地名である。


 永田(ながた)橋

市街地と細野湾津を通して、高原とを結ぶ重要な役割を持つ道路に架かっており、城山城の下手に位置する。永田平公園の麓にあるので、永田の地名からこの名前が付けられた。

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 宮下(みやのした)橋

城山城跡の北側で外堀の役割をもつ東下にある。下手の防御に大きな役割を持った川に架かる橋である。宮下は神社などと関係のある地名であるが、いわれはよく分からない。

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 辻の堂(つじのどう)橋

辻というのは道路が交差しているところをいい、地名・川名は付近に仏堂が置かれていたことなどから付けられた。橋名は川名による。
一般県道104号(霧島公園小林線)で、小林の中心部から霧島岑神社・竹山・山中地区を結ぶ里道だった。後に種畜牧場が設置され、昭和48年(1973)「ひなもり台」で全国植樹祭が行われたとき、この橋と洗出川の橋が架けられ、植樹祭の輸送を円滑にするため大きな役割を果たした。

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 孝の子(こうのこ)橋

小林からえびの高原を結ぶ路線で、出(いで)の山線と呼ばれる市道に架かっている。生駒高原での花祭りその他の観光に大きく役立っており、地区の名前が橋の名前になっている。

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 85. 木場田(こばた)川

高原町広原・下刈目から流れ辻の堂川に合流する延長1.5kmの3次支川。木場は、山から木材を切り出して集める場所に付く地名である。