86. 大丸(だいまる)川

高原町広原・千反橋から流れ辻の堂川に合流する延長1.5kmの3次支川。大丸のいわれはよく分からない。



 87. 洗出(あらいだし)川

小林市細野から流れ、辻の堂川に合流する延長1.9kmの3次支川。この洗出川も小林中心部から霧島岑神社、竹山、山中地区を結ぶ里道にあり、全国植樹祭に間に合わせるため改修された橋が架かっている川である。
霧島連峰の度々の噴火で多くの灰を洗い流したので付いた名前である。


 湾津(わんづ)橋

湾津とは、そもそも海に浮かぶ船をつなぐところという意味がある。この地は高原との境にある地区で、古くから交通の要所として栄えたところである。内陸交通の要所という意味で付いた地名と思われる。上流には、県立水産試験場(出の山公園)もあり、少量の水量をもった橋である。

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 山神(やまかん)橋
岩瀬川の支川・辻の堂川の支川・洗出川に架かる橋である。この川すじの谷を登ると夷(ひなもり)岳の麓にいたる。霧島山群の入り口にあたっており、山神を祀っていたのかもしれない。山神橋の名称は、都城市丸谷川の上流にもある。
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 前の山(まえのやま)橋

市街地と「ひなもり」を結ぶ線で高速道路にかかる橋(陸橋)である。竹山霊園の上にあり、竹山地区の奥に架かる竹山橋が、霧島北部広域農道に示された橋の位置である。夷守岳の山麓にあり、地形から付いた名称と思われるが、明らかではない。

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 88. 谷之木(たにのき)川

源流は須木区にあって、谷の木城の下に流れをつくり、東栗巣野地区で岩瀬川に合流している。延長12.0kmの2次支川。谷の木地区には古石塔群があって、古くから人が住んでいたといわれる。川沿いの谷の木という地名が、川の名前になっている。


 茶臼川(ちゃうすかわ)橋

谷の木川の流れの中で、資料及び小林市史にも「茶臼川橋」と記載されているが、橋のプレートには「茶摩川橋」とされている。近くに住む人の話によれば、橋のたもとに茶屋があり、通行人の休憩に利用されていた。谷の木川に架かる橋が茶臼川橋となったのはなぜか分からない。

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 猫坂(ねこさか)橋

猫坂峠の下にあるので付けられた名前。昔、夕方にこの峠を人が通ると、急に道が消え、旅人たちは行方不明になるという恐怖の峠であった。人々は魔物がいると信じ、それを退治するため、三人の猟師を選んだ。彼らは三日三晩待った。三晩目の真夜中、闇のなかに、六つの目が、ピカピカ光りながら近づいてくる。猟師は弓に矢をつがえ、一斉に放った。ところが四つの光は狂いまわっていたが、やがて見えなくなった。翌朝、猟師たちは二匹の死んだ猫を見つけた。しかし、残った一匹はその後姿を見せなくなった。たたりを恐れた村人たちは、この峠脇に松を植えた。人々はその後この峠を猫坂峠と呼んだ。松も大きくなったが、その後松食い虫のために枯れて伐られたので、その姿はない。

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 白坂(しらさか)橋

一説によると、周辺地域はシラス土壌が多く見受けられることから白坂(シラス坂)と付いたという説がある。そこの地名から命名されたという。

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 猪の鼻(いのはな)橋

一説によると地形が猪の鼻のように、突き出た様な形をしていたことから付いたという説がある。ともあれ、橋はその地名をとって命名されたという。

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 奈佐木(なさき)橋

奈佐木(なさき)は「なせ(斜)き(場所をいう接尾語)」の転訛で、傾斜地の意味であると考えられる。戦国時代、ここには山城である奈佐木城があった。今も地名としての奈佐木がある。この地名から付けられたものである。

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 89. 石氷(いしごおり)川

小林市南西方から流れ、岩瀬川に合流する延長14.1kmの2次支川。石氷川は、えびの高原の甑岳(こしきだけ)を水源としている。渡し場の石が凍るほど冷たい水が流れることから名付けられたといわれる。
資料に掲載されている「巣の浦川」は「下刈目川」のことで、南西方地区でつながっている川は「轟木(とどろき)」にある流れである。


 中の島(なかのしま)橋

岩瀬川のほぼ中間になる所で、石氷川のなかではおだやかな流れを見せている川に架かっており、地区の呼び名が橋の名前になっている。

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 水の手(みずのて)橋

小林城跡の東たもとで石氷川を横切る橋である。小林市史によれば昭和30年(1955)須木村(現小林市須木区)に県営電気の綾南ダムが建設されることになり、工事用のトラックなどがひんぱんに通行するので、危険防止のため補強工事が行われたという。その後、通行する車の増加に伴い永久橋になり、平成9年に側道が設けられた。この地区の名前が橋の名前である。水の手は、城の用水を取る所に付く地名である。

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 大手(おおて)橋

小林城跡の西麓で石氷川を渡る橋である。明治時代には「土大手橋」とも、「江馬場枝橋」とも呼ばれた土橋だったが、その後、木の橋となり昭和38年(1963)永久橋となった。また、この橋は小林城跡の大手門からくだった位置にあって下流に歩道橋が取りつけられた。大手は城の正面入口の意味である。

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 坂元(さかもと)橋

坂元は県立小林高校の北側にある地名である。坂の登り口にあたっている。地区の名前が付けられた。川が大きくカーブしたところの下流にある。洪水のたびに川の様子が変わるのはどこでも同じだが、ここの橋は狭いながらしっかりしている。坂元は、坂の登り口にかかる土地に付く地名である。

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 石氷(いしごおり)橋

この橋は、新旧二つの橋の歴史を学習できる。市街地の売子木(ちしゃのき)〜十三塚(じゅうさんづか)〜石氷への道は、もともと県道であった。現在の国道側の種子田、永久津方面の集落が大きくなり、次第に交通量が減って、橋も老朽化したため使用しなくなった。昭和18年(1943)石造りの太鼓橋となった。この橋は二連アーチ橋で、この種類の橋は水面に映る姿が眼鏡(めがね)に似ているので、「めがねばし」と呼ばれている。平成2年3月28日、小林市有形文化財として指定されている。

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 90. 真方(まがた)川

小林市真方から石氷川に合流する延長2.8kmの3次支川。小林市とえびの市の境界の山地から流れ出る川である。石氷川の支川であるが、真方付近で合流する。地名から付いた川の名である。真方のいわれは不明。


 真方(まがた)橋

大手橋から永久津地区に通じる路線で、旧道には石造りの太鼓橋が架かっている。県道整備が進められたので、現在の永久橋になった。真方の地区名が橋の名前となっている。

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 91. 種子田(たねだ)川

小林市北西方の観請橋から石氷川に合流する延長6.0kmの3次支川。天保14年に書かれた「三国名勝図会」によれば、種子田という地名は、大昔、「粳稲(うるちいね)といって常食にしている米の種子を、初めて植えたところである」としている。このいい伝えをとって、おこった地名が川の名前となっている。


 みやこはし

所在地の地名を使っていない橋である。この付近は、かつて湿田が多く、水利の悪い水田が入り混じっていて農耕に不便であった。しかし、圃場整備が進められ、小林西高校の野球場が建設されるなど、地域が発展している。地元の期待や願望をこめて「みやこはし」と名付けられた。

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 92. 巣ノ浦(すのうら)川

小林市南西方の生駒橋から石氷川に合流する延長5.0kmの3次支川。「夷守岳(1344m)の北の麓から流れ出ている。溶岩台地を侵食して流れる荒れ川である。大正7年(1918)この山の森林資源を利用する営林署の事業所がおかれて巣之浦官行と呼ばれていた。その名残として、巣之浦川の名で呼ばれている。


 元・窪田(もと・くぼた)橋

巣ノ浦川で述べたように、水源を甑岳(こしきだけ)・ひなもり岳にもつ巣ノ浦川は、南西方(みなみにしかた)の轟木地区に流れている。この川をまたぐ県道53号に架かる橋であり、窪田地区の名前が使用されている。

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