93. 炭床(すみとこ)川

大淀川の1次支川で延長11.2km。高原町大字後川内辺りから流水し、炭床地区の諏訪神社前を通り小牧辺りから大淀川に合流する。川底は平坦で、浅めであり静かに流水している。水田地帯の灌漑用水としても利用されている。地名の炭床の由来は定かではない。「床」は「処」に通じるところから、炭処〜炭どこ〜炭床と変化したのかもしれない。


 下小牧(しもこまき)橋

県道414号と地域内の道路を連絡する道路上、高崎町小牧地区農村地帯に架かる橋である。この橋の下流500mのところで炭床川は大淀川に合流する。道路のほうは大淀川に達する前に大淀川と平行して北上を始め、数キロ平行した後轟ダムを過ぎるところで、道は大淀川に別れを告げ西進を始め、笛水地区の中央部に至る。牧は牧場からでた地名である。

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 上小牧(かみこまき)橋

有水・高原線上蔵元と地域内の道路を連絡する道路上、小牧地区の農村地帯に架かる橋である。この小牧橋は下小牧橋の少し上流に架かっている。小牧地区一帯は昔を残した農村地帯である。もっとも田や畑は土地改良事業等により整備され整然としている。小牧という地名から昔牧畜が盛んで牧場が在ったことが伺われる。

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 鳩越水路(はとごえすいろ)橋

縄瀬の千原、鳩越一帯の畑地や山林原野を開墾し、水田を造成するために用水路橋として架けられた橋である。難工事や洪水などのため完成までに9年を要したとあるが、完成は大正11年(1922)である。池ノ友上橋の下流側に接するように造られている。
橋名は地名からであるが鳩越という地名のいわれは定かでない。夕暮れ時、人里から見て、鳩がねぐらへ急ぐ姿がよく見られるところであったのだろう。

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 池の友上(いけのともかみ)橋

地域内の道路間を連絡する道路上に架かる橋である。里山や切り開かれた田に挟まれた道を上っていくと、雑木林の中にこの橋が忽然と現れてくる。橋の前後で道は大きくカーブしている。交通量は少ない。自然の中そのままという雰囲気で森林浴の気分に浸れる。地名でもある橋の名の池ノ友とは、何とも懐かしく親しげな名前ではあるが、その由来は定かでない。

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 池の友下(いけのともしも)橋

地域内の道路間を連絡する道路上に架かる橋である。周りはわずかの土地を切り開いた田で、その向こうは杉林に囲まれており、ここだけの世界ができている別世界の感があり、日本の原風景を思わせる。池ノ友の名の由来は池ノ友上橋で述べたとおりである。推測させてもらえば、高崎は湧水や湿田の多かったことから、ここでは特に水澄んだ池でもあって、それを誇りとしたことからきたのかとも思われる。

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 大竹(おおたけ)橋

地域的には中山間部に架かる橋である。この橋が架かる川は炭床川である。支流や、さらにその支流があり、勢い架橋されている橋も多い。橋名は普通地名から採られることが多いが、この橋の名は固有の名称である。すぐ近くに孟宗竹の竹林があり、大竹橋の名はここからきたのかもしれない。

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 吉村(よしむら)橋

県道414号上、吉村地区に架かる橋である。昭和50年(1975)竣工、橋の長さ約17mの小橋である。この上を走る道路は広域農道であり、高崎町東霧島から三股町宮村に至る基幹道路でもある。
橋の名は地名の吉村から採られているが、吉村とは地名、人名に多い名である。「吉」に願望が込められているものと思われる。

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 杉之下(すぎのした)橋

地域内の道路間を連絡する橋である。吉村地区にある。一帯は中山間部。吉村橋を中にして大竹橋とこの杉之下橋があるが、大竹橋の命名と同様、この杉之下橋も橋から見えるすぐ近くの小高い杉から来たものと思われる。

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 新炭床(しんすみとこ)橋

地域内を連絡する道路上に架かる橋である。この新炭床橋の上流、下流ともに山の切れたところどころに、わづかに田が開かれている。戦前までは農作業はもちろん牛馬、農産物の運搬も荷車が使われたのは良いほうで、馬や牛の背が運搬の主役だったとある。現在この橋の存在は大きい。(炭床のいわれは炭床橋を参照)

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 大砂(おおすな)橋

地域内を連絡する道路上にある。西進すれば江平小学校へ、東進すれば鵜戸地区へ至る。平成11年に竣工した比較的新しい橋である。
大砂は地名ではないが、この辺りは昔畑や耕地・農産物や農作業が、砂に苦しめられたのではないかと思われる。季節風に乗った砂粒が直接影響を与えたり、または川そのものが堆積する砂に苦しめられたのではないか。大砂は自然現象から生じた地名と思われる。

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 須山(すやま)橋

地域内を連絡する道路上に架かる橋である。上流の炭床橋と下流の大砂橋の中間に位置する。橋の名は地名から採られているが、須山の須に注目してみると、須には細くて小さいという意味があることから、周りの地形からきたのだなと思われる。川の東側はなだらかな山が東西に伸びている。

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 炭床(すみとこ)橋

県道42号上、炭床川中流付近に架かる橋である。ちなみにこの42号は笛水への経路でもある。笛水の手前、野尻湖に達しようとする所で42号は左へカーブし、野尻湖に架かる椎屋大橋を経て国道268号に接続する。
地名、橋名でもある炭床の名の由来は「床」は処に通じるところから来るものと思われる。炭処〜炭どこ〜炭とこ〜炭床と変化してきたのではないか。川沿いに炭床という集落がある。

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 砂子田(すなこだ)橋

県道42号上炭床川中流付近に架かる橋である。
この辺り一帯砂子田と呼ばれている。橋の名もそれからきている。砂子田の砂子は砂と同義語である。それから判断して砂の多い田が連想される。これより下流2、3キロの地点に大砂橋が架橋されているが、ここでも砂の一字がある。砂と関係の深い土地であったと思われる。

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 暮(くれ)橋

県道414号が一部県道42号と共用されて再び県道414号となって、野尻湖方面へ北上する県道42号と別れる地点にこの橋は架かる。
暮橋の暮は日暮れの暮と思われるが、この暮が橋名になったいわれは不明である。この橋が架かる一帯の少し開けた場所には数枚の田が広がる。西側には山が連なり、太陽が山の端にかかると日暮れは早いと思われる。高崎の町から笛水方面に帰路を急ぐ人たちが、この辺りで日暮れに追われるように家路を急いだのではないか。住む人の心情から付いた名前かもしれない。

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 奥(おく)橋

県道414号に架かる橋であるが、この地点もう高原町に入っている。山間を縫って走る道路上にある。奥は地名でもある。この辺り高崎からはずうっと奥地に入った感があるが高原町から見ても随分と奥地である。奥という名前の由来は肌で実感できる。地理的に奥地というところから奥の文字がそのまま使われたものだろう。

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 94. 木下(きのした)川

大淀川の2次支川で延長3.6km。高原町一帯から高崎町杉倉を経て江平の木下地区を流れ炭床川に合流する。地名は不明だが山林との関係から付けられたものと思われる。


 久藤(くどう)橋

県道42号と有水・高原線を短くつないでいる道路に架かる橋である。昭和39年(1964)東京オリンピックの年に架橋されている。橋の長さ約12m。有水・高原線など道路も整備され、交通量はかなり少なくなっているが地域を支える重要な橋である。名前の由来は定かでない。ただ「久」の第一の意味の「曲がりくねって、くねくねと伸びているさま」からしてこの辺り、藤が自然のままに自生していた土地でそのことから生じた地名でないかと思われる。

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 温水(ぬくみず)橋

県道42号に県道414号が突き当たる所に架橋されている。平成17年竣工の新しい橋である。橋の長さは約9m。橋名は地名による。「温水」とは湧水、湿地帯を表す。「温」の中には「水気が中にこもって、むっと温かい」の意味があることから、この一帯から高崎は、いたるところ湧水や湿地が多い。このことと関係のある地名と思われる。昔は温水(ぬくみ)といっていた。

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 温水中(ぬくみずなか)橋

県道42号上に架かる橋である。温水橋とは目と鼻の先で大声を出すと声も届く距離である。両方とも木下川に架橋されているのであるが、道そのものは県道42号と県道414号の違いはある。温水という地名のいわれは温水橋のところで述べたが、補足すると、北部には野尻湖、東部には大淀川、近辺には炭床川やその支流などがあり、湧水や湿地帯だったことがわかる。

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 95. 佐渡(さど)川

大淀川の3次支川で大牟田あたりから、鍋橋の下を流れて、温水橋当たりで木下川に合流する。延長3.8km。佐土は砂地の意味を持つので、砂の多い川であることを表した地名と思われる。


 鍋(なべ)橋

県道42号を国道221号江平口から暫く北上した地点に架かる。鍋地区である。橋の長さ約11mで、車を運転していて橋を渡ったことさえ気付かずに過ぎてしまう。昔ここら一帯は「なべんたん(鍋谷?)」と呼ばれていたということであるが、「鍋」の咼の部分には「円くくぼんだ穴」の意味があり、それがそのままこの辺りの地形をいい表している。周囲を低い丘や木立に囲まれて、鍋の中を思わせられる。地形から生じた地名である。

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 96. 有水(ありみず)川

有水の大半は山地であり、有水川はわずかな南の平地を流れている1次支川。石山の香善寺地区あたりから大淀川に合流する。川幅は広く水量も多い。延長9.4km。
有水というのは、稲作用の水があったことから起こった地名であるといわれている。


 萬年(まんねん)橋

橋名については、かつてこの地にあった満年寺によるという説や、橋造りの時地元の人々がいつまでも保てるように、万年という名を付けるようお願いしたともいわれている。国道10号が高城の中心地を過ぎて、有水で川に架かる橋である。今の橋は、昭和39年(1964)に竣工したもので、橋の長さ約69m、幅約8mの主要な橋である。
藩政時代、田尾地区には仮屋地頭(かりやじとうー当地を治める役所)が置かれていた。当時「田尾の欄干橋」という唄があり、欄干のある橋は格式があり高城郷では唯一の橋であり、都城では竹之下橋が欄干橋であった。この朱色の欄干橋は田尾の人々の誇りであったという。

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