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 97. 高崎(たかさき)川

霧島山群東斜面から西諸県郡高原町のほぼ中央を東流し、都城市高崎町に入り国道221号に並行しながら南東に流れ、高城町石山地区で大淀川に合流する1次河川。高崎町の中心河川であり高崎川と命名している。延長21.8km。川幅広く水流も多い。
「高崎」の地名は、天上界の神々が常駐(じょうちゅう)する高天原(たかまがはら)が転訛(てんか)して高原となり、祭事(まつりごと)や居住される皇居(こうきょ)の地を崎と呼ぶことから高崎になったと伝えられる。(高崎町誌より)


 鶴崎(つるさき)橋

高崎川の最下流に架かる。間もなく大淀川に合流する地点でもあり、川幅広く水量豊富でこの一帯は穀倉地帯。鶴崎は地名ではない。橋の固有名詞である。鶴崎の名は、川の流れがゆったりと描く曲線が鶴の首を連想させたのでもあろうか。また、水の多いことを表す「水流」が「鶴」となったとも考えられる。地域の特徴や川の流れる様子から付けられた名前であると思われる。

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 巣立(すだて)橋

南下してきた高崎川が大きく湾曲してまた北上を始める頂点に位置している。またこの地点は木之川内川が丸谷川に合流し、その丸谷川が高崎川に合流する地点でもある。
橋名は地名によるが「巣立」は「巣立つ」、「巣立ち」からきたのではないかと思われる。広い川原は鳥たちが川原の葦の間で子育てをするのに最適と思われる。川原が鳥の営巣地になっていたことから生じた地名と思われる。

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 樋之口(ひのくち)橋

高崎川の下流で、この先で木之川内川と丸谷川が合流した川と一つになる。水量は豊かであり、この辺りも穀倉地帯を形成する。樋之口の「樋」は水を通す「かけひ」のことであるが、樋之口となれば「水の取り入れ口」となる。この辺りから取水されていたのだろうと思われる。「樋之口」は字名ではないが、水利の様子から生まれた名称であろうと思われる。

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 権堀(ごんぼり)橋

広域農道に通じながら地域内の道路間を連絡する道路に架かる。昭和40年代に入る頃、車社会の到来があり、交通量も増加した。道路の整備や橋梁の架け替えが盛んに行われるようになったが、この権掘橋も昭和44年(1969)木橋からコンクリート橋に架け替えられている。橋名は右岸の地区名権掘からきている。権掘の名の由来は定かでない。

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 牟礼水流(むれづる)橋

広域農道、高崎町東霧島・三股町宮村線上、高崎市街地南部の穀倉地帯に架かる。平成5年竣工、橋の長さ約67m。橋名は地名による。牟礼水流の「牟礼」は人の群れ住むという意があり「ムレ」が転じて「ムラ」になったともいわれる。一方「水流」は川が湾曲した所または川の近くの土地に付けられる名称である。

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 不動(ふどう)橋
国道221号と県道42号を連絡する道路上に架かる。昭和35年(1960)に永久橋に、そして昭和51年(1976)に現在の橋に架け替えられた。橋名は橋独自の名であるが、木造橋であった頃よく流失していたことから、流されてしまわないよう願いを込めて、「不動」と名付けられたものでもあろう。
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 松原(まつばら)橋

高崎の市街地南部に広がる穀倉地帯、地域内の道路間を連絡する道路上に架かる。この橋の上流、下流に幹線道路同士を結ぶ道路が整備され、この橋は今は車の交通量も減り、農道として活躍している。橋名は松ヶ水流地区と原村地区とを結んだことから生じたものであろう。

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 高田(たかだ)橋

国道221号と県道42号を連絡する道路上に架かる。当初この橋は高坂と田中の集落を結ぶ町道に架けられたものであるが、両地域の篤志家たちが材料を持ち寄ったとある。以来補修の繰り返しであったが、昭和43年(1968)に永久橋として架け替えられたものの、交通車両の大型化に対処できず、平成18年に現在の橋が新設された。
橋名は高坂と田中を結んでいることから「高田」となったものであろう。

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 高崎(たかさき)橋

県道42号都城・野尻線が高崎市街地に入るところに位置する。この道路は明治の25年までは都城から西諸地方への幹線道路であり、現在の橋の位置から500m下流にあり、名前も真幸街道といわれていたとある。その頃の橋は簡易な板橋で、通称「渡」といったともある。橋名は町名から来ているが、高崎の名の由来は、高崎町史によると、天下り後の国つ神達が起居される宮居の神都の地が崎となり、それに「高」が冠せられて「高崎」となったとある。

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 荒場(あらば)橋

県道413号祓川・高崎線が高崎市街地に入る直前に架かっている橋である。もとこの道は、木材搬出道であったが現在は整備され、幹線道路となっている。
橋名は地名からきているが、この一帯は特に台風時などの増水で橋が流失したりするなど、風水害の被害が頻繁に起こり手を焼いたものと思われる。そんなところから荒場の地名が起ったのではないかと思われる。

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 田平(たびら)橋

地域内の道路間を連絡する道路上、高崎町北西部田平地区に架かる。橋名は地名から採られている。「田平」は一般に田地に面した傾斜地の意であるが、川の右岸は山々の裾野が川に向かって傾斜地を形成している。自然の様子から生じた地名と思われる。川は清流が流れ、せせらぎの中では冬には鴨の群れが羽を休めている。

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 柏木(かやのき)橋

国道221号が前田地区に入る手前に架かる橋である。柏木は「かしわぎ」ではなく「かやのき」と呼ぶ。「かやのき」は地名であるが表記は「柏ノ木」。「柏」はヒノキ、コノテガシワなどヒノキ科の常緑樹の総称である。高崎町は扁柏(へんぱく)(檜)の産地でもあることから「柏木」の地名が起こったと考えられる。また柏には栢の異字体があり、これは「カヤ」と読み文字通り「カヤの木」を指す。

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 栗巣(くりす)橋

国道221号と地域内の道路を連絡する道路上に架かる。現在は近くに広域農道が整備され、こちらの利用者は減少した。橋名は地名からきているが、栗巣という名のいわれは定かでない。近くには柏木橋があるので、こちらの方は対岸の栗巣という地名が橋の名になったのであろう。

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 柏木(かやのき)橋

国道221号にも同名の橋があるが、こちらは広域農道祓川・野尻線上、国道221号が眼前に迫ったところで、柏ノ木地区に架橋されている橋である。従来の農業専用道路が広域農道として整備されることになり、その事業の一環として全面改修されて昭和53年(1978)現在の橋になった。橋名は地名からではあるが同じ「カヤノキ」でも地名は「柏ノ木」と表記する。

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 前田(まえだ)橋

国道221号旧道に架かる。昭和43年(1968)竣工、橋の長さ約85.5m。橋名=地名。
前田の地名は、7世紀の半ば、大化の改新の頃には発生していたと思われると高崎町史にある。さらにそのいわれは、天孫降臨後の神々が食される稲田がこの地に設けられたことから前田の地名呼称になったともある。川の流れは橋の川下で大きくS字に湾曲し、のどかな風景を現出している。

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 町倉(まちくら)橋

国道221号の旧道とバイパスを連絡する道路に架かる。本来は前田地区と朝倉地区間の里道であり、川の両岸に広がる田に行くための農道であった。バイパスが旧道とまた一つになるには1キロ強あるがその間にはこの町倉橋一つしかないので、両岸の田に行き来するには大変重要な橋である。橋名は地名からきているがその名前の由来は定かでない。

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 新花堂(しんはなどう)橋

国道223号が北上してきて、高原の市街地も間もなくだという地点にこの橋は架かる。昭和47年(1972)竣工。橋の長さ約63m。国道が新規に開設された折建設されたものである。
橋名は、地名の花堂からきているが由来は定かでない。ただ堂には「広く高い土盛り、また、台地」とあるので、この辺り一帯の台地に花が咲き乱れていたのでもあろうか。

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 城山(しろやま)橋

国道221号パイパス上、高原に入る手前に架かる橋である。平成2年の新設で両サイドには広々とした歩道を持つスマートな橋となっている。城山の裾に華麗なカーブを描く近代的な橋である。
伊東氏が元亀年間この地を領した際、この城山に家臣・工藤因幡守に命じて城を築かせたとあるが、まもなく島津氏に追われて城は捨てられた。城の名は高崎城、別名龍虎山城ともいわれた。

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割付(わりつけ)橋  

国道221号パイパスが開通し、前田橋が新設されたことにより、この割付橋はその役目は終わったとして利用が停止された。しかし、前田橋の交通量が増え、児童・生徒の通学に危険だということでその利用が再開された歴史を持つ。その際、老朽化していた橋は左岸分の半分が人一人通れるだけの鉄骨財の継ぎ足しに変った。しかしその再利用も、割付地区の人口の減少により、車の交通量も余裕を生み、とりわけ児童・生徒の減少が大きく、前田橋の通学時の危険も減ったということで、再度割付橋の利用は停止され、橋の中央と左岸の渡り口が金網や鉄柵で閉鎖され今に至っている。
ところで橋名は地区名から採られているが、割付は割り付け(=割り振り)から来ている。武士の集落であった頃、住む所が割り振られていたことに由来している。

川下、右岸から見た割付橋 橋の右半分から左半分を見た割付橋
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