98. 丸谷(まるたに)川

山田町には霧島山系から発する丘陵台地(きゅうりょうだいち)が西から東へかけて五条に走り、その間を木之内川、山田川、丸谷川、渡司川が間をぬうようにして流れ、大淀川へ合流している。丸谷川は夏尾の東、牛の脛橋あたりから流れて、山田町の中霧島あたりで高崎川に合流する延長22.3kmの2次支川である。丸谷の由来は定かではないが、室町期にすでに見える地名であり、谷に囲まれた地の意味と思われる。川名は地名による。


 牛之脛(うしのすね)橋

橋名は地名による。西岳町の一部である夏尾町にある小橋である。国道223号と県道牛野脛・山田線の接点にあり、橋下は渓流が流れている。牛の脛の地名は、その昔神武天皇が若い頃この辺りを通ったとき、乗っていた牛が泥沼に入り込み脛(すね)から腹まで埋まってしまい、なかなかはい上がることができなかったという伝説から付いたといわれている。

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 山ノ神(やまのかみ)橋

丸谷川の上流、高千穂峰の山麓部にある。ここは、狩猟や、山仕事で山に入る人にとっては、山地への入り口にあたっているので、山ノ神を祀った所と考えられる。土地の習俗から出来た名称と思われる。

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 99. 木之川内(きのかわうち)川

源流を霧島山の東麓に発し、西岳村を通り都城市山田町の木之内川地区を流れる3次支川。延長12.8km。木之川内の地名は、樹木の多い川内ということかもしれない。


 岩満(いわみつ)橋

橋名は地名による。岩満は室町時代に見える名田名(みょうでんめい)である。国道221号、志和池の岩満で川に架かる最後の橋である。昭和35年(1960)の竣工。
川幅は狭く、流域には荒れた竹林が多い。岩満の地名は、川の荒れた様子から生じた名称と思われる。高崎方面へ直進してすぐ左側に王子神社がある。創建は古く祭神は火照命(ホデリノミコト)である。この王子神社は、下水流(しもづる)で大淀川に架かる王子橋の由来にもなっているようである。

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 木之川内川(きのかわうちかわ)橋

橋名は地区名による。昭和58年(1983)竣工の小橋である。県道42号が走り小林ー野尻線の交差点に続く最も大きな橋である。川の少し上流には木之川内小学校も見える。

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 100. 山田(やまだ)川

山田町の中央を西から東に流れて丸谷川に合流する延長9.6kmの3次支川。山田は、山間にある田のこと。山田町の地名は『庄内地理誌』によると、三河内にあって山と谷田が帯状にのびる地形から付けられたとある。川名は地名による。旧山田町は、都城盆地の北西部にあって、台地が広い。用水路が開かれる以前は、水利のよい所だけに田が開かれていたと思われる。盆地の低地からみたら、山間のあちこちに田が開かれているので、山田と呼ばれるようになったのではないか。前田正名によって用水路が開かれたのは、明治34年(1901)のことである。


 寺(てら)橋

橋名は、近くに正定寺があるので付いた名前と思われる。山田町支所の下り坂を経て山田川に架かる橋である。橋は短いが、道路は直進したら高城、左折したら高崎に向かう主要な道路の一つであり、地区では重要な橋の一つである。
正定寺は明治13年(1880年)の山田説教所の設立に始まる。明治24年(1891年)寺号が「栄松山正定寺」と公称されることになり、翌25年(1892年)には開基住職の尼子善念師が就任し、現在も山田町の主要な寺院の一つである。

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 瀬之口(せのくち)橋

川の上流には瀬が多い。川の流れが瀬になっている場合、瀬の始まる所を瀬の口という。口は入り口のことである。農道に架かる小橋で、幅も狭く車の離合も容易ではない。

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 花舞(かまい)橋

地区の納骨堂の脇道を下ると、川幅の狭いところに行きあたり、橋を渡ると花舞神社が鎮座している。花舞神社(山田神社)の名称から付いた橋名である。花舞神社の祭神はニニギ・コノハナ・ヒコホホデミなどであったが、後に住吉三神とツキヨミを合祀したという。古くは霧島六所権現のひとつであったと伝えられている。花舞神社は、明治3年(1870)山田神社と改称された。現在でも花舞神社の名で親しまれている。当社の神宝の古い掛け軸に「華」の字があることから付いた名であるといわれている。

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 梶原(かじわら)橋

梶原という集落がある。その村の名称を付けた橋である。梶原の由来は分からないが、地勢上、梶の木が多く自生している土地であったのかもしれない。梶の木の皮は、紙の原料になった。田畑の中の古い小橋である。三股町にも梶山の地名がある。

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 平山(ひらやま)橋

山田川の中流域に平山という集落がある。平山は、低平な山のことで自然の地形から出た地名と思われる。田畑の中の古い小橋である。

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 下椎屋(しもしいや)橋

椎屋の地名は県内に幾つもある。椎は本来は崖を意味する語である。崖の多い土地に出来た集落に椎の字が付く。下椎屋に架けられたから土地の名を付けたのである。田畑の中の古い小橋である。

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 新地(しんち)橋

新地とは、古くからある集落にたいして、新しく開かれた場所をいう。下椎屋の近くに開かれた土地を、新地と呼んだと思われる。新地は、位置的には下椎屋の上手にあたる。田畑の中の古い小橋である。

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 石風呂(いしぶろ)橋

山田川上流にあり橋名は特色のある地名による。この地区では昔から大きな自然石をくり抜いて造られた石風呂が多数利用され、それが地名の石風呂となった。
全体的に古びていて小橋であるが、昭和46年(1971)一部改築されて、基柱には山田町のシンボルである、かわいいかかしのレリーフが付いている。
近くの石風呂営農研修館の横に石風呂の実物(時代が過ぎて石風呂もなくなっていたので、佐土原に移住していた出身者が寄贈したもの)が展示してあり、その由来の説明板も設置されていて、地区の人々の先祖の生活史に関する郷愁も感じられる。

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 山口(やまぐち)橋

山の入り口にあたる所に、山口という名前が付く。ここは、稲妻山(453m)の入り口にあたる。霧島山麓の樹林地帯である。文字通り山の入り口(山口)となっている。この山を越えると高千穂峰山麓の「御池」にでる。

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 寺(てらはし)橋

山田川の最上流部に架かる橋。寺橋は、寺と関係深い名称であるが、この付近に寺があったかどうかは不明である。ここから、山を越えて霧島東神社の別当寺・花林寺?杖院に通じる参道があったのではないか。?杖院は霧島六所権現御座所の宮で、平安時代に性空(しょうくう)上人が開山したと伝えられる信仰の地。花林寺に参詣に行く人たちが通っていたので寺橋という名前になったのではないか。

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 稲妻(いなづま)橋

丸谷川の支川・山田川の最奥部にある。稲妻山(454m)の麓にあるので、この名が付いている。平成8年に改築された橋で、橋名は地元の有志で名付けたという。橋のたもとに「1級河川・山田川・上流端、指定年月日・昭和46年3月20日」の白い角柱が設置されている。
夏の時季に高千穂峰に雷雲がかかって雷鳴が起こると、稲妻山の真上あたりに稲妻が走るように見えていたのであろう。自然現象からついた山の名前である。霧島山もそうであるが、旭岳・速日峰・雲取山など、類似の山の名称がある。

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 101. 渡司(わたし)川

大淀川の支川である丸谷川の上流部にあたる。高千穂峰の南麓から流れ出る川で、延長8.5kmの3次支川。渡司(わたし)という小集落があるので、その地名が付けられたのである。江戸時代初期に、この地方の馬渡(まわたり)という所に、領主用の馬の牧場が開かれた。牧場関係の役人の通路になっていて、渡守をおいたので、渡司川と呼ぶようになったのではないか。司というのは、役所や役人のことである。


 中霧島(なかきりしま)橋

上・中・下という文字は、地名によく使われる。中霧島という土地に架けられた橋の名である。霧島山の高千穂峰は、山岳信仰の山で古くから信仰され、江戸時代は、鹿児島藩主の信仰も篤かった。都城から霧島山に向かうと、山田町あたりが中ほどと考えられていたので、この地名になったのではないか。この地域から見る高千穂峰は、秀峰というにふさわしい。霧島山群を中ほどに見る所という意味もあったかもしれない。

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 山内(やまうち)橋

山内は、文字通り山の内という意味である。同様に、山中・山下・山口などなど、山に関係した地名・人名は数多くある。丸谷川の流域の小平地が、この辺りから狭くなって山に架かる。山内である。その付近の地名も山内という。場所の名前が橋の名前になっている。

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 鐘突(かねつき)橋

橋名は地名による。由来は、昔近くに山寺があり、鐘を突く音がこだましたものと思われる。残念なことに、その橋は農道に架かっているが、原型を保っていない。

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 古江(ふるえ)橋

「安永郷古江村」という地名は、15世紀ころにすでにあったと伝えられている。古江村に作られた橋であるから、その名が付けられている。「古江」は海岸地方によくある地名であるが、内陸部にあるのは珍しい。いわれは不明である。

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 渡司(わたし)橋

渡司という小集落がある。この土地の名から付けられた名称である。渡司については、渡司川の項に同じ。

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 102. 馬渡(まわたり)川

馬渡の地で丸谷川に合流する延長0.3kmの3次支川。渡司川で書いたように、江戸時代初期に、この地方に領主の馬の牧場が開かれた。牧で飼われている馬が、川の対岸に渡る時、この場所を渡っていたのであろう。馬は、水や草を求めて移動するから、渡りやすい一定の場所がある。そこを馬渡りと呼ぶようになって、この名が出来たのではないかと思われる。馬渡りの下流の方には、駒という地名がある。馬の牧と関係のある地名である。




 103. 前田迫(まえださこ)川

高崎町前田から高崎川に合流する延長2.5kmの2次支川。迫は、谷または谷の奥の行きつまりになった所のことである。この地域は、高千穂の峰の山麓部を、南東に向かって幾筋もの谷が出来ている。その谷の前面に開けた田を前田と呼び、そこから奥に入った所を前田迫と呼んだと考えられる。その地名が川の名になったのであろう。
地形から考えてみると理解できる地名である。前田とか迫という地名は、他にも多くある。



 104. 湯の元(ゆのもと)川

高原町蒲牟田から流れ、高崎川に合流する延長3.5kmの2次支川。湯の元という名称は、温泉と関係の深い地名である。霧島山麓にあたる地域なので、湯の出ている所があったのではないかと思われる。そこを流れているので、このような名で呼ばれるようになったのであろう。



 105. 東岳(ひがしだけ)川

山之口町から高城町を経て、大淀川に合流する延長11.1kmの1次支川。都城盆地の東側は、天神山・東岳・大谷山の山並みによって、宮崎市田野町・日南地方の北郷町と境界をなしている。東岳(898m)は、霧島山を西岳として、向かい合う山に付けられた名称である。東岳から流れ出る川を、東岳川と呼んだのであろう。東・西・南・北は、地名としてよく使われる文字である。


 下東岳(しもひがしだけ)橋

東岳川の最下流にあたる。流域は広大な田畑一帯であり、広域農道の高木と高城の境に架かる昭和45年(1970)竣工の橋である。その場所の地名ではなく川の下流部にあるという意味で付けられている。すこし上流部に東岳橋がある。それより下手(しもて)にあることを意味している。

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 土器田(どきた)橋

橋名は地名による。「土器田」という名は、一般には、開田の時に土器が出てきた田という意味に使われる。国道10号上では新桜木端の次に位置し、高城町内の入口にあたり、橋の両側には土器田橋の標識が建てられている。昭和45年(1970)竣工の橋の長さ約71m、幅約12mの橋で、基柱はなく赤茶色の欄干が付いている。
宮崎市の那珂に、土器田横穴墓群がある。付近から多くの土器片が発掘された所である。同様の地名は他にもある。
この地の「土器田」は「堂北(ドウキタ)」の当て字で、古代遺址には関係ないといわれている。

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 東岳(ひがしだけ)橋

東岳(898m)は、東岳川の水源になっている山である。川の流域は田畑が広がる。昭和45年(1970)竣工で古いが側道橋は付いている。高城方面には城山(※高城歴史資料館)も遠望でき、延長すると高城高校前にも至る。
三股町との境界にそびえている山で、山は緑の樹林に覆われている。水源の山と、そこから流れ出る川の名から付けられた名称。場所の情況をよく表している。

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 宝光(ほうこう)橋

宝光という語は、仏教と関係の深い語である。近くに宝光寺跡がある。このことから、宝光の地名が起こったと思われる。
川の高城側流域には野菜関係のビニールハウスが立ち並んでいる。昭和54年(1979)竣工の古い橋で歩道は線引きである。道の延長は城山に至り、近くに感じられる。

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 春日(かすが)橋

春日は、春日神社を祀った土地に付く名前である。高城町の大井手に春日神社があり、その土地が春日という地名になっている。橋にもその名が付いたのである。
川の流域には田畑が連なる。昭和52年(1977)広域農道事業により架設されたものである。両側の歩道帯は古いが欄干は改修の跡が見られる。高城町側の延長上には春日交差点があり、直進すると観音池公園、観音桜の湯に至る。

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 大井手(おおいで)橋

大井手という集落の名から付いた名称である。大井手の地名は古くからあり、14世紀初期の南北朝期の史料に「三俣院大井手」と出ている。高城一帯は、古くから穀倉地として重要な所であった。大井手という語は、大きな用水の意味である。高城地方は、早くから水田が開けており、溝とよばれる水路が幾つも作られている。「日向地誌」によると「大堰溝」という用水が記録されているが、これが大井手のことではないか。
川の流域には田畑が連なる。春日交差点から県道三股・高城線上の道に架かり、高城のほうに延長すると観音池公園に至る。昭和62年(1987)竣工で欄干は金属パイプ状である。橋の近くに高城町上水道地区浄水場が設置されている。

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 大田(おおた)橋

大田というのは、大きな田のことである。水田の開けたところには、このような地名がある。春日交差点から山之口方面へ向かう途中、右下に行く坂を下り対岸にある集落の入口に架かる。昭和48年(1973)竣工の古い橋で歩道はない。
この橋が架けられているのは、東岳川であるが、大田橋の左岸に、田原という土地がある。この辺りは、水田が広く開けたところで、広い田んぼが多くあったので、この地名が出たのではないか。

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 小井手(こいで)橋

小井手は、大井手に対して起こった地名である。小井手橋は大井手橋の上流部に架けられている。集落を過ぎた田畑の中に架かり、平成10年に欄干など大幅改修され、長さと幅員もある橋である。川には井堰があり一帯も整備され、農業用水としての活用が図られている。橋の上手には朱色のJR鉄道橋が架けられている。

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 瀬戸口(せとぐち)橋

瀬戸というのは、川幅が狭くなって流れが激しくなっている所のことである。その入り口が瀬戸口である。東岳川をさかのぼると、この辺りから東岳山麓に入り険しい谷(瀬戸)となる。瀬戸口に架かる橋なので、この名称が付いたと思われる。上流に近づくと杉林と農道の間を川が流れている。川幅も狭くなり、小石等も多く、谷間に入る様態であり清流がサラサラと流れている。橋は古く幅員も狭いので車1台しか通れない感じである。

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 走湯(はしりゆ)橋

ここには、走湯神社があるので、この名前が付いている。国道269号、山之口橋を過ぎて、脇道に入った所に架かっている。以前は石橋であり、現在の橋は昭和40年(1965)に架け替えられている。走湯神社は、アマテラス・オオナムチ(大国主)の神などを祀っている。南北朝初期の建武3年(1336)に、鎌倉武士の土肥平三郎実重という武将が来て、ここに伊豆の国熱海の走湯権現を祀ったと伝えられている。その後、北郷忠相が山之口村の総鎮守として尊崇したという。走湯権現は温泉の神様であるが、土肥氏が、故国の神を祀ったのである。

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 山之口(やまのくち)橋

山之口という集落の地名からとった名称である。国道269号上にあり、東岳川の上流に位置し、交通量の多い主要な橋である。ここから、青井岳(563m)を越えて、田野に旧街道がぬけている。田野は飫肥藩領、山之口は鹿児島藩領である。藩境であるため番所が幾つも置かれていた。(日当瀬番所跡・古大内番所跡などがある)山之口は、山の入り口の意味である。

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 野々宇都(ののうど)橋

東岳川の上流にある橋である。野々宇都という地名から付いた名称と思われるが、野々宇都の語義は不明である。宇都は鵜戸と同義で、うと〜空洞のこと。ウツギという潅木は、軸の芯が白くスポンジ状になっているので、ウトキ(鵜戸木)ともいう。野々宇都は、ウツギの多い土地であったので付いた地名かもしれない。

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