106. 花の木(はなのき)川

山之口町から高城町を経て東岳川に合流する延長11.3kmの2次支川。花木の地名は、古くからあるが、由来はよく分からない。14世紀の初期、南北朝の初めころに、この地方に花木祖賢入道という豪族がいたと伝えられている。花の木という地名は、大変美しい地名である。この一帯は、風景もよく自然も豊かである。早くから住んだ有力者が、花木を名乗り、地名となったのであろう。花木という場合は、よく桜の木をさしている。古来、桜が多くあったのかもしれない。地名から川の名が出たのであろう。


 高桜(たかさくら)橋

高城町桜木と高木をつなぐ橋であり、両方の地名をとって高桜橋と名付けられた。国道10号上の桜木交差点を左折して、すぐ高木へ向かう重要な位置にあるが、とても古く基柱は欠け、橋名は不明の古い短橋である。
高木と桜木は、鎌倉時代に大宰府(だざいふ)から下向(げこうー地方の役人になる人)としてきた人たちに、この名字を名乗る人たちがいたことが知られている。

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 新桜木(しんさくらぎ)橋

桜木の地名をとって名付けた新橋である。国道10号の高木と桜木の境界を流れる花の木川に架けられ、桜木交差点を経て高城町へ続いている。今の橋は昭和54年(1979)に竣工し、橋の長さ約20m、幅約12mの交通量の多い主要な橋である。

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 花の木川(はなのきがわ)橋

ここに挙げた三つの橋は、花の木川の下流部に架かっていて、距離的にも近い。1と2が、地名を付けているので、3は川の名を付けたものと思われる。この川の上流に、地名を付けた花ノ木橋がある。川の名を付けた橋も数多くある。(大淀川橋・沖水橋など)
平成14年に大幅改修された。基柱も欄干もきれいで幅員も広い橋である。

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 横手(よこて)橋

横手は、花の木川左岸の地名である。横手は城砦に関連する地名である。どの城の横手であったかは不明であるが、下富吉に古城という古城跡がある。この城の横手であったかもしれない。日南市にも星倉に横手の地名がある。(城では、正面を大手・後ろを搦め手と呼ぶ)
橋の周辺は田畑が広がる。昭和53年(1978)竣工で、欄干の代わりのフェンスも赤サビている小さな橋である。近くには菅原天神の赤い鳥居と社が見える。

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 大原(おおはら)橋

この地域に原中の地名がある。広大な沖水川扇状地の北縁にあたるこの土地は、大原とも呼ばれていたのではないか。その中ほどが原中である。本来の地名をつけた橋である。橋の周辺は田畑が広がり、ビニールハウスも多い。昭和54年(1979)竣工で欄干の代わりに白いフェンスがつけられている小さな橋である。

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 中川原(なかがわら)橋

沖水川扇状地の縁を流れる花の木川は、広い川原をつくっていたと思われる。花の木川と樋口川が合流する川原付近にかけた橋であるから、この名が付いたと考えられる。橋の周辺は田畑が続く。昭和57年(1982)竣工であるが、あとの時代に青い水門が併設されている。後方には熊野神社も近くに見えている。

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 上森(うわもり)橋

上森と原田を連絡する橋である。上森の地名が橋に付けられたのである。橋の周辺は田畑が続く。平成15年に全面的に改修され橋脚、基柱、欄干等新しい。後方には熊野神社やお寺が見える。

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 京陣原(きょうじんはら)橋

京陣原というのは、戦いに関係ありそうな地名であるが、分からない。高城・山之口地域は南北朝期、戦国期を通じて戦場となった地域であるから、京陣原も伝承があるかもしれない。地名を橋の名称にしている。国道269号の飯起(いぼこり)交差点を右折して田畑の中の道路に架かる。橋は古いが平成7年橋脚などの大幅改修がされている。

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 古城(ふるじょう)橋

古城という地名は近くに古い城砦(じょうさい)があったことを表している。国道269号上富吉地区飯起交差点の手前に架かっている橋である。古城橋のすぐ横にある小高い丘陵地帯に、その昔、庄内の乱(都城の乱)の時、山之口城を攻めるために、島津氏が臨時的に築いた出城の古城(鶴ヶ城)が築かれていたので、この地名が付いたと考えられる。
全体的に古びているが、平成10年に部分的に改装され、欄干はブロンズ色に彩色されている。

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 飯起(いぼこり)橋

橋が架けられている場所の地名が、飯起(いぼこり)である。国道269号飯起交差点を宮崎方面に向かい、右折した高城・三股の広域農道上で川に架かる小さな橋である。飯起(いぼこり)という地名は、珍しいがいわれは不明である。

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 花ノ木(はなのき)橋

花ノ木川には、15の橋がかけられていて、下流部の横手付近に花の木川橋があり、川の名称が付いている。花木集落にある橋には、花ノ木の地名が付けられている。県道47号が通る山之口中学校のすぐ近くに架かる橋である。一部改修され幅員も広く、交通利用も多い。(花の木の地名は、前項を参照)

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 川内下(かわうちした)橋

花ノ木川は、三股町との境界にある大谷山(532.9m)から流れ出ている。大谷山は、その麓に大きな谷を形成しているから、このように呼ばれたのであろう。平野部から山地にかかり、川内付近から谷が深くなる。川内は川の奥地につけられる地名で、川内は、よくその場所を表している。川内の下手(しもて)に作られたので、川内下橋としたのであろう。

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 107. 冨吉(とみよし)川

山之口町富吉から花の木川に合流する延長5.5kmの3次支川。富吉村の地名から出た名称であると思われる。冨吉という地名は、天文13年(1544)の「福王寺鎮守山王棟札写」という史料に、すでに出ているとされている。冨吉地区には的野正八幡宮(まとのしょうはちまんぐう)があり、豊かな地域だったのでこの名が付いたと思われる。あるいは、最初に村を開いた人たちが、この村の繁栄を願望して、富吉という縁起のよい文字をあてるようになったのではないか。地名は、土地の自然の特徴から付けられる名称や、そこに住んだ人々の願いを表して付けられる名称も多くある。


 富吉(とみよし)橋

富吉は、大谷山の山麓に広がる集落で、山地と平地の自然も美しい土地である。地名が橋名に付けられている。富吉の中心地に架かり、国道269号が通る。都城と山之口をつなぐ主要な橋である。平成8年に改築竣工され、欄干にはアジサイが刻まれ優美である。(富吉の地名については前項参照)

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 西畑(にしはた)橋

西畑という地名から出た橋の名称である。西畑という地名は、村の開発の歴史の中で出来た地名で、川の西側に開かれた畑ということからでたのであろう。
周囲は田園地帯で近くの高台には熊野神社が鎮座している。昭和40年(1965)竣工の田畑の中に架かる古い小さな橋である。

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 久保田(くぼた)橋

昭和38年(1963)竣工の小橋であるが、昭和57年(1982)改修され、幅員は広くなり、1m幅の歩道路側帯もつけられている。集落と集落の間に架かる生活道路である。
久保は窪と同じ意味で、くぼ地の地形から出来た言葉である。地名に多く見られる。高城に西窪・大窪という地名がある。久保田の地名から付けられた橋名である。

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 岩崎(いわさき)橋

集落の中の生活道路に架かる小さな橋だが、とても古く基柱もないので竣工時は不明である。周辺にはビニールハウスが立ち並んでいる。
岩崎という土地に架けられたので、地名が橋の名称になっている。岩崎は、岩のある地形の先の意味である。各地にこのような地名がある。大谷山の山麓部が張り出して、岩の先のような地形があったのではないか。

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 瓶釣(びんつり)橋

瓶釣(びんつり)というのは珍しい名称である。町内の人は「びんつい」ともいうが、その由来は不明である。集落から外れた川縁の小さな農道の奥づまりに架かる。
昭和56年(1981)竣工の橋の長さ約16m、幅約4.5mの古い小さな橋で車1台しか通れない。橋の正面の小さな丘には墓地がある。

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 108. 樋口(ひぐち)川

東岳につらなる大谷山(532.9m)の麓から流れでる川である。花の木川の上流にあたり、山之口町の中心部を流れて富吉川に合流する延長2.0kmの4次支川。樋(ひ)というのは、水道を引く樋(とい)のことである。昔は、パイプやホースが無かったので、竹や木で作った樋を使用して水をひいた。村の用水をとる水源になる川であったので、樋口川と呼ばれるようになったと考えられる。水源を大切にする意味から、樋口と呼んだのであろう。



 109. 庄内(しょうない)川

この川は、霧島山地の高千穂峰の麓から、都城盆地の中央部に流れてくる延長24.6kmの1次支川である。鎌倉時代の初めころに、都城盆地の中央部は、島津庄と呼ばれる広大な荘園であった。(荘園〜平安時代から鎌倉時代にかけて、有力な貴族や寺社が所有した土地)荘園のうちを庄内と呼んでいた。また、荘園の中心部は、本庄などと呼ばれていた。島津庄の中央部近くに位置したので、庄内と呼ばれるようになったのであろう。川の名称もそこから出たものと思われる。


 鵜之島(うのしま)橋

庄内川下流、志比田鉄道橋の下流にあり、乙房町と野々美谷町を結ぶ位置にある。橋名は、かつてこの辺りに鵜がたくさん生育していたことによると思われる。川の中州に川鵜が集るところがあって、この地名が生じたのではないか。今の橋は昭和45年(1970)に竣工し橋の長さ約100mだが平成20年から改修工事が進行中である。

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 引土(ひきつち)橋

庄内川をまたいで、平田と菓子野を連絡する橋である。土地の名が橋名となった。田園地帯に架かり、昭和41年(1966)竣工で、幅員は狭く車の往来も多くはないようである。
場所的に見ると、庄内川沿いの低平な土地であるから、地盤をかさ上げするために、台地の側から土砂を運んで埋め立てたのではないか。推測ではあるが、土を運んで造成したので、引土の名が付けられたと考えられる。

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 平田(ひらた)橋

庄内川の右岸に平田という集落がある。引土橋の次に架かる橋で、状況は同じようである。この地名が橋の名称になっている。平田は、低平で田んぼが開けたところに付く地名である。

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 上平田(かみひらた)橋

平田橋の上手に架けられた橋。庄内側の道路の延長線には庄内中学校があり、通学路にも利用されている。平田の地名がもとになっている。水田による稲作が、長い間わが国農業の中心であったので、平田に限らず田という字を使う地名や苗字は、多数存在する。

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 庄内(しょうない)橋

橋名は地名による。鎌倉時代の頃、都城盆地は島津の庄と呼ばれ、荘園の内を庄内と呼んだ。このあたりは島津庄の中央近くに位置していたので、庄内と呼ばれるようになったという。広い範囲を意味している庄内の語が、この地域に地名として残ったということである。庄内という地名も、各地にある。山形県の庄内平野はよく知られているが、大分県・福岡県にも庄内町がある。橋は県道30号と県道108号が交わる平田交差点の先で川に架かり庄内中心地の入口に位置する。橋は昭和40年(1965)竣工で、平成元年側道橋が設置された。川岸には5月5日の子どもの日前後に、たくさんの鯉のぼりが飾られる。

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 上川崎(かみかわさき)橋・下川崎(しもかわさき)橋

関之尾町に、川崎・上川崎などの地名がある。この橋を含めて、この地域には、下川崎橋・新川崎橋がある。川崎は、川先と同じ意味である。旧庄内町の中心から見て、庄内川の先の方にあるので「川先」と呼んでいたのを「川崎」と書くようになったという。川崎は苗字にも多く使われている。上川崎地区と関之尾町の境に架かる橋である。昭和39年(1964)竣工で、幅員も狭く大型車との離合は無理である。

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 新川崎(しんかわさき)橋

川崎という現地の地名から付けられた名称である。川崎の名を付けた橋は、この地域に3橋あるが、新川崎橋が最後にできた新しい橋である。平成12年関之尾滝に向かうバイパス事業により新設された橋である。アーチ式の長大橋で基柱も欄干もブロンズ色である。

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 上関之尾(かみせきのお)橋

関之尾橋という名称は、関之尾という地名からきている。関は、水をせきとめるところの意味である。尾は、末端のことである。ここは地質時代に生じた大火砕流が流入して、川底数百mに広い岩盤を形成している所で、川水はこの岩盤でせきとめられ、岩盤の表面を侵食しながら流れている。岩盤の末端は、関之尾の滝となっているのである。関之尾は、川の地形そのものから生じた名称である。
田園の中に架かる昭和39年(1964)竣工の古い小さな橋であるが、集落方面に直進するとT字型道路に行きあたる。左折すると関之尾の滝へ、右折すると庄内町街区に至る。

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 大倉田(おおくらた)橋

現地が、大倉田という所である。場所の地名から付けられた名前である。高千穂峰から南東にのびる山稜が、庄内川で浸食され、川は山際を曲流する。倉田は、水田と関係深い地名であるが、大倉田の起こりは不明である。
県道31号都城・霧島公園線、大倉田バス停留所を過ぎた地点で、左下方の低地の田園内を流れる川に架かる。昭和53年(1978)竣工の古い小さな橋で県道からすぐの道筋はなく、車の往来は少ないようである。

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 竹山(たけやま)橋

川の右岸に竹山という集落がある。この地名から付けられた名前である。県道31号、竹山バス停留所を過ぎて田畑方面に左折した道路に架かる。集落の中の生活道の様態である。
竹山は、自然の状況そのものから出た地名であろう。この辺りは、竹林の繁った山であったと思われる。

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 小椎山(こじやま)橋

この地が、小椎山(こじやま)という地名である。場所の地名から付いた名称である。竹山橋の上に架かり、昭和53年(1978)竣工の車1台しか通れない古い小さな橋である。椎の木は、ブナ科の樹木で、川岸の急斜面にもよく繁茂する。椎は、崖の多い所に付く地名である。山間部に椎谷・椎屋・椎木など椎をあてた地名が多くある。椎の木が繁ったところがあったのかもしれない。

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 柳河原(やなぎがわら)橋

現地が柳河原と呼ばれる地名であろう。地名から付いた名称である。県道31号から左折し、すぐの集落間に架かる昭和48年(1973)竣工の、やや幅広の生活にかかせない橋である。柳河原は、年見川水系にも見られる地名である。川岸に水に強い柳が繁茂している場所であったと思われる。えびの市には、柳水流(やなぎつる)という集落がある。川内川の段丘にある。福岡県柳川市も、矢部川下流の三角州に発達した都市である。柳の地名は川と関係が深い。

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 中村(なかむら)橋

中村という地名から付いた名称である。田畑の中で柳河原橋のすぐ上部に架かり、古い小さな橋である。中村は、中ほどにある村の意味である。おそらく庄内川沿いの集落の、中ほどにあたるので、この名が起こったのではないか。
中村という地名も各地にあって、町・村の中央部にあたる位置が多い。

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 千足(せたらし)橋

この地区に千足(せだらし)神社があって、この地名がある。千足橋の名称も、これから付いた名前である。庄内川の源流近く、県道31号から左折し下った狭い田畑の中で、昭和46年(1971)竣工のやや幅広の古い橋である。集落の中の生活道である。 千足神社は、古くからあって16世紀はじめの棟札に「栴多羅寺(せんたらじ)」の文字があると伝えている。千多羅六所権現とよばれる山岳信仰の地があったとされている。

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 上千足川(かみせたらしがわ)橋

千足川橋の上手にあるので、この名前が付いている。位置を表す名称がつけられている。県道31号と同じ路面で左折した直後に架かり、基柱や欄干には熊そ踊りのレリーフがつき、山間地の橋では珍しく照明柱3基を備えた幅広の立派な橋である。 竣工は平成4年で、橋を渡った先はすぐ狭い山道になりほとんど利用されていない橋といえる。

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 広瀬川(ひろせがわ)橋

庄内川が荒川内川と合流する付近が広瀬である。地名から付けられた名称である。県道31号、西岳の高野町中心地に架かる高野橋(荒川内川)を過ぎた直後の交差点を、左折した県道105号牧之原線に架かっている。昭和39年(1960)竣工の古い小さな橋である。
川に広い瀬ができていたのでこの地名が生じたと考えられる。広瀬は、河川に沿った土地によくできる地名である。佐土原町の石崎川下流にも広瀬の地名がある。広瀬、簗瀬・大瀬・山瀬など、川に沿った地域には、瀬のつく地名が多い。

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 作之久保(さのくぼ)橋

作之久保という地名から付いている。農業と関係の深い地名である。作は耕作のこと。久保はくぼ地になった地形の意味である。ここに住んだ人たちの耕作地の呼び名が、地名になった所と思われる。

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 仏堂(ぶつどう)橋

文字の通り仏堂のある場所に仏堂の呼び名が生じ、そこにかけられた橋に仏堂橋の名がつけられたのである。『日向地誌』に、明観寺不動堂があったが、慶応のころ廃寺となり、今水田となっているとの記述がある。この不動堂のことかもしれない。

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