110. 溝之口(みぞのくち)川

庄内川の上流で鹿児島県曽於市側から、都城盆地に流れ込んでくる延長9.0kmの2次支川である。庄内川との合流点の近くに、溝之口という集落がある。溝は、水路のことである。口は水の取り入れ口のことである。流域の水路の水の取り入れ口に当る村の名・溝の口が、川の名称になったものと思われる。地域の開発の歴史がうかがわれるような地名である。



 111. 荒川内(あらかわち)川

霧島山地の高千穂峰の南麓から流れくだる川である。下流で庄内川に合流する延長3.8kmの2次支川。火砕流や火山灰の堆積した山麓部を浸食して流れ下るので、文字通り荒れ川である。荒れ川の奥にあたるので、荒川内ということになる。川の自然の姿そのままの名称ということができる。


 高野(たかの)橋

荒川内川と庄内川の合流点付近にあり、昭和38年(1963)に架けられた橋の長さ約15mの小さな橋である。高野は、この地域の地名である。この地名が橋の名称になっている。高野の地名は、庄内町の平地から見て、高い場所にある原野の意味である。そこに開かれた集落が、高野と呼ばれるようになったものと考えられる。高野には、天明2年(1782)建立の秋葉大権現の石碑がある。秋葉権現は火伏せの神として知られている。高野町内には、山の神・田の神など石像が幾つもある。

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 下荒川内(しもあらかわち)橋

荒川内の下手にある場所に架かる橋である。荒川内という場所を元にして、上と下を分けて位置関係を表している。

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 荒川内(あらかわち)橋

西岳の高野バス停前に架かっている。昭和58年(1983)に竣工した古い橋で、荒川内という場所にあるので、この名が付いている。荒川内の地名は、荒れる川の奥地の意味である。庄内川もそうであるが、支川の荒川内川も、高千穂峰の南山麓部を流れ出ているので、火山噴出物が堆積した地域を流れくだる。川の侵食作用が強く働く所で、川も荒れた様相を見せている。自然の姿から付いた土地の名が、橋の名称になった。

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 上荒川内(かみあらかわち)橋

荒川内橋の上手にある橋である。荒川内川にかかる橋の上・下の位置を表す地名から、付けられた名称である。竣工が昭和58年(1983)、長さ約18mの橋である。

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 板荒川内(いたあらかわち)橋

荒川内川の上流部の谷に架けられている橋である。板という文字が付いたいわれは不明であるが、谷川となっていて川幅が狭いので、初めは板橋が架けられていたのではないか。橋の形態を表した名称と思われる。

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 112. 金山(かなやま)川

霧島山中より流れ荒川内川に合流する延長1.40kmの2次支川。金山は、鉱山採掘と関係のある名称である。綾町北俣に金山という地名がある。ここは、江戸時代の明和年間(1761〜71)に、鹿児島藩が金の試掘をおこなったが成功せず、廃鉱となったといわれている所である。金山川も、流域で金山の試掘がおこなわれたのではないか。
※この川にかかる橋に、上千足橋と下千足橋がある。美川町であるが、宮之馬場に千足神社(せだらじ)という神社がある。
「千足神社」〜千多羅(せだら)六所権現と呼ばれていて、永正16年(1519)の棟札には、栴多羅寺(せんだらじ)の文字があると伝えている。古くから都城の歴代領主の信仰が篤かったといわれている。霧島信仰に関連した神仏混淆の社寺があったものと思われる。
(多羅は、梵語ー古代インドの言葉ーで、釈迦の誕生仏に香油を注ぐ仏事に使う器のこと)



 113. 沖水(おきみず)川

大淀川の1次支川で、都城盆地の東方にそびえる鰐塚山(1118m)の山麓から流れ出る延長21.3kmの1次支川。上流部は深い峡谷をなしていて、「長田峡」と呼ばれ、渓谷美の自然で知られている。都城盆地は、周りの山地から沖積した土砂によって幾つもの扇状地が形成されている。沖水川は、長田峡入り口の轟木付近を頂点にして西に向かって扇状地を広げ、山王原、東原、高木原などの台地をつくっている。
扇状地では、川水の大半は地底を流れ、表面の流水は僅かである。川幅が広いのに、河流は沖の方を流れているということから、沖水川という名称が生じたのではないか。あるいは、洪水の時に水が溢れ、沖のように見えたことから「沖水」になったのかもしれない。扇状地で地底を流れた川水は、早水神社付近で湧水となっている。


 下沖水(しもおきみず)橋

沖水橋の下流部に出来たので、この名称になったと思われる。昭和52年(1977)に竣工し、橋の長さ約185mで平成15年に側道橋も設置された。橋の下は市民緑地広場として整備されている。夏になると「せせらぎ水路」でちびっ子たちの歓声が上がる。

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 沖水(おきみず)橋

この地域の沖水という地名から付けた名称である。国道10号に架かり、都城市外から吉尾町、都城ICに続く重要な橋で、昭和35年(1960)に永久橋が架けられた。現在の新橋は平成3年に一部改修され、橋の長さ約179m、幅約8mと広く交通量も多い。(沖水のいわれは前項のとおりである)

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 下郡元(しもこおりもと)橋

郡元の地名をとって橋の名称としている。下手にあるので下郡元橋である。
市道が郡元の住宅街から神之山の田園地帯に向かい、今の橋は昭和56年(1981)に架け替えられ、比較的交通量も少ない。
郡元(こおりもと)は、都城盆地の開発の中心となった場所である。郡元の地名は、文字通りこの地域が開かれる出発点であったことを意味している。平安時代中期(11世紀初期)に島津荘が開かれる時期、この地に役所が置かれていたとされている。
鎌倉時代(13世紀)に、島津荘の役人として下向した惟宗(これむね)忠久が、ここに館を置いたと伝えられている。忠久は、後に島津の地名をとり島津忠久と名乗った。(島津氏第一代)

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 東郡元(ひがしこおりもと)橋

東郡元に架けられたので、その地名をとって東郡元橋となった。橋の長さ約171mで、昭和34年(1959)に木造橋として架けられたが、その後、永久橋に架け替えられたが、旧郡元橋と東郡元橋が連結している構造的に珍しい橋。平成15年に側道橋も設置された。
国道269号が郡元の国立病院機構都城病院前から東郡元橋を経て神之山に向かい、交通量も多く市内で主要な橋である。郡元側には都北清掃工場もある。

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 今市(いまいち)橋

橋名は地名による。今とは初めという意味がある。今市は都城に接する平地であるが、戦国時代の勝岡城があった頃、ここで都城との交易のために市が立ったことから今市というようになったと考えられる。今市は元は中郷の一部であり、今の三股町で昭和59年(1984)の区画整理によりできた町名である。
勝岡城は樺山資久(かばやますけひさ)が築いた砦がもとになったと考えられ、後にいろいろな奪い合いを経て、最後には都城領主北郷氏(ほんごうし)のものとなったが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となっている。

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 三股(みまた)橋

三股の地名からとった名称である。県道33号が三股を発し日南へ向かう最初の橋であり、交通量も多く交通の要所である。昭和63年(1988)に新しく竣工した大きな橋であり、橋照明柱も6基備えており近代的な橋である。近くには町の著名な早馬神社も鎮座している。早馬神社の祭神は馬頭観音で例祭には多様な飾りを身につけた馬がリズミカルに躍る「ジャンカウマ」等が有名である。
三股は、古代日向の官道(古代の政府が設けた道路)の駅・水俣が置かれた所と考えられている。水俣は、川の流れが分かれる所の意味である。三股から山之口・高城一帯の地は古くから三俣院と呼ばれていた。古い地名である。三股村ができたのは明治22年(1889)で、三股町になったのは昭和23年(1948)。

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 梶山(かじやま)大橋

梶山の地名から付いた名称である。梶山という地名は、14世紀(室町時代)からあらわれている地名で加治山とも書き、かつて梶山城が築かれていた。梶山城は戦国時代に三股の樺山城から移ってきた樺山資久(かばやますけひさ)が1350年頃築いた山城であるといわれる。元和元年(1615)の一国一城令で廃城になっている。
梶山の名前のいわれは不明である。梶(かじ)の木の多い土地から付いたのかもしれない。梶は、樹皮を紙の原料に使う。

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 梶山(かじやま)橋

橋名は地名による。梶山は戦国時代から見える名である。梶山大橋の上流部にかけられている。県道33号梶山交差点から山手に入り込む道路に架かる。昭和53年(1978)に架け替えてあるが、その後、基柱やフェンス等は新しくなっている。大橋と同様に、梶山の地名から付いた名称である。
梶山橋は沖水川の矢ヶ淵に築かれている。江戸時代の矢ヶ淵には橋が無く、下流の沖水川を渡っていたという。最初は欄干のない板橋で、昭和2年(1927)には吊り 橋であった。現在の橋は梶山と中郷とを結ぶ石橋で、昭和16年(1941)に完成したニ連の石造りアーチ橋である。また、水面に映った姿がメガネのように見えるからメガネ橋とも呼ばれ地域の貴重な文化財である。

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 轟木(とどろき)橋

轟木という地名から付いた名称である。昭和18年(1943)に架けられたアーチ式の貴重な石橋で水面からの高さは約15m、長さ約30mもある。橋にはガードレールだけで、見た目では石橋と気づかない。
轟木(とどろき)は、川の水が滝になって、水音が響いている土地に付く地名である。高崎にも大淀川沿いに轟(とどろ)の地名がある。鰐塚山・柳岳山系から流れくだる沖水川が、このあたりで滝になっていて、水音が高く聞こえていたところとおもわれる。長田峡の入り口付近にあたる。

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 山女(やまめ)橋

県道33号線が町外に抜ける地点で架かり、沖水川の源流に位置する。山女(やまめ)は、サクラマスが陸封(海にくだらず、内陸の川に住みついた川魚)されて、川で繁殖しているものである。沖水川は、ゆたかな樹林に覆われた山地から流れ出るので、山女が生息している。長田峡には、ヤマメの養殖場もある。清流に住むヤマメの名をとって山女橋としたのである。山峡にかかる橋にふさわしい名称ということができる。沖水川の源流に近い地点でもある。

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 114. 細目(ほそめ)川

沖水川の支川である。柳岳(952m)の山麓から流れ出る延長3.4kmの2次支川。沖水川の合流点の近くに、細目という集落がある。川の名も、この地名から付いたものと思われる。細目のいわれは分からない。人相をいうのに似ているが面白い名称である。藩政時代には「細目辺路番所」があった。


 中野(なかの)橋

細目川に沿って、中野の地名がある。この地名からとった名称である。中野は、細目川の中流域に開けた集落なので、この地名ができたと思われる。

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 115. 花谷(かだに)川

三股町花谷地区から流れ沖水川に合流する延長1.1kmの2次支川。花谷川とは美しい名称であるが、いわれは分からない。山桜などがよく見られる川筋であったことから、生じた名称ではないかと思われる。



 116. 表川内(おもてかわち)川

三股町表川内川地区から沖水川に合流する延長1.6kmの2次支川。
川内は、谷の奥の詰まった所をいう地名である。地名では、表・裏、前・後、などの文字がよく使われる。山や川を基準にして位置をあらわしている地名である。水源となっている柳岳(952)は、旧飫肥藩領と都城領の境界にそびえている。柳岳の飫肥藩領側に広渡川の上流に北川内という土地がある。都城の側を表の川内として、このような地名になったのではないか。北川内も表川内のように谷の上流部になっている所である。対向的な地名ということができる。
旧高鍋藩領では、名貫川(なぬきがわ)を境にして北側を「川北」、南側を「川南」と呼んでいた。川南は、現在の川南町である。



 117. 横市(よこいち)川

横市のいわれは明らかではない。横という位置を表す文字をあてているので、どこかの横の意味であろう。蓑原・都原台地を挟んで大淀川の北側を流れて財部町に入る延長23.5kmの1次支川。
戦国期から要衝(ようしょう)とされた都之城にとっては、蓑原・都原・横市などは、防御上重要なところであった。都之城の横を流れているので、この地名になったのかも知れない。「横市」の「横」はそば・かたわらの意味、「市」は市場の市であるとされ、神社・寺院のような目標・目印になるものの横にある市を横市と読んでいたのだが、そのまま地名になったものといわれている。(前田厚『都城地名考』)


 横市川鉄道(よこいちがわてつどう)橋

JR九州の日豊本線が、横市川の上流の財部付近で川を渡っている。横市川鉄道橋と呼ばれている。

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 大根田(おおねだ)橋

大根田という地名から付けられた名称である。大根田は、江戸時代には、大野田と書かれている。月野原台地の南端部に、横市川が形成した平地が開けている。そこに広い水田が開けていったので、はじめ大野田と呼んでいたのではないか。大野田が大根田に変化したと考えられる。また、その昔神武天皇がこのあたりに鎮座する天神様の屋敷で、そこの田で作った米でご飯を差し上げたことから、その田を大甞田(おおなめた)といったのがなまり、「大根田(おおねだ)」になったとも伝えている。

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 和田(わだ)橋

和田は大根田の対岸に位置する地名である。場所から付けた名称である。和田も、大野田(大根田)と同じく、水田に関係する地名である。横市川流域に農地の開発が進む中で生まれた地名と思われる。和田や野田は、人名・地名にも多くある。

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 横市(よこいち)橋

横市は、都城市街地の北西部に位置する。横市の地名の起こりは不明。旧五十市(いそいち)村の一部であった。市の字が付いていることから、市が開かれていた所かもしれない。北西部の庄内から都城に入る通路にあたる。

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 宝来(ほうらい)橋

宝来とは、蓬莱と書く。中国の伝説で、不老・不死の楽園とされる世界をいう。地名から付けられた名称ではなく、宝来の願望から付けられた名称であろう。

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 118. 年見(としみ)川

三股町樺山から流れ、大淀川に合流する延長9.6kmの1次支川。新年の1月14日の夜に、その年の豊凶を占うことを、年見という。川の名に何故年見がつけられたかは、よくわからない。
日南市との境にある柳岳(952m)連峰の麓から西に流れる。昔、この川の水を見て、新年を占う神事でもあったのであろうか。都城市年見町は、この川の名前から付いた地名とおもわれる。県内には、年見を苗字として名乗る人々もいる。
また、川沿いの年見川遺跡は、弥生後期の遺跡である。古くから人が住んだ地域で、地名も早くからあったと思われる。


 宮丸(みやまる)橋

宮丸の地名から付いた名称である。宮丸は、神代の時代に、この地に高千穂峰に降臨したニニキノミコトの宮居があったという伝承から、付けられた地名であると伝えられている。丸は、宮居の場所を区画するという意味である。都島に宮古神という神社があったから、この区域を宮丸と称したといわれる。
昭和56年(1981)竣工であるが一部改装され橋桁も赤い。宮丸町と大王町(大王第2児童公園付近)を結び交通利用も多く橋の長さ約97mの長大橋である。

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 前田(まえだ)橋

橋名は地名による。明治から見える字名である。現在の中町から前田町3丁目辺りを前田と称する。江戸時代初期に都城の中心部に領主館が造られた。その前方にあたる地域に開かれている水田を前田というようになったのではないか。
国道10号が通る都城市内随一の繁華街である中央通りの入り口にあたり、交通量の多い市内で最も主要な長さ約24mの橋である。橋の竣工は昭和39年(1964)と古いが近年大幅に改修され、基柱も欄干も新しく中央には車道分離帯もあり歩道面もカラフルなタイル様できれいである。

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 柳河原(やなぎがわら)橋

橋名は川原に柳がたくさん生えていたことによると考えられる。
国道10号から1つ離れ並行して通る市道で前田橋のすぐ下手に架かる橋である。橋そのものは前田橋と同時期といえるが、周辺の住宅街の再開発に合わせて平成15年全面的改修により基柱も欄干もブロンズ色で歩道もカラー舗装のモダンな外観になっている。橋の近くには近代的な広場があり、先には都城ウエルネス交流プラザや大丸デパート等があり、人通りも多い。

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 中原(なかはら)橋

低平な平野の中で、少し小高くなった土地(微高地)を、原(はる)という。現在の妻ヶ丘あたりの地形である。中は中央部のことで、都城の中央部にある原であるから中原という地名になったと思われる。この地名が橋の名称になった。
年見川が神柱公園を経てNTT都城の前を流れる地点で、中原町と前田町の境に架かる。昭和45年(1970)竣工で、基柱も一部欠け欄干も傷んでいる長さ約23mの短い橋であるが、道を少し直進すると交差点で国道10号に合流するので交通量は多い。下手には神柱神社の鳥居も見える。

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 天木(あまぎ)橋

橋名の天木という地名はないのでその由来は不明である。中原橋の下方で都城駅前から直進する主要道と神柱公園の中央を流水する年見川が北原町で交差する地点で橋が架かる。昭和49年(1974)竣工で長さ約14mの短い橋であるが、都城駅から続く広い道路で交通量も多い。
橋の上方には神柱公園が広がり、市立児童館や児童公園等があり、親子で賑わう。

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 119. 後(うしろ)川

財部町北俣から流れ、横市川に合流する延長4.5kmの2次支川。前・後・東・西・南・北などの文字は、よく地名に付けられる。その場合、川などを基準にして位置を示すようになっている。
後川は、おそらく都城から見て、後(うしろ)にある川としたのではないか。山を越えて東側には、関之尾の滝がある。



 120. 谷川内(たにがわち)川(大峰川)

財部町北俣永里から後川に合流する延長6.5kmの3次支川。大峰(500mくらいか)から東に向かって流れ、都城盆地に入る川である。源流にあたる大峰の名前から、大峰川の名が付いている。
大峰川の下流、谷川内付近では谷川内川と呼ばれている。川は上流と下流で呼び名が異なる場合がある。人々は自分たちの居住地を基準にして呼び名を付けるからである。大峰は山地なので、人々が多く住んだ谷川内の名で呼ばれるようになったのであろう。
川の上流部で、谷に川が集るところを、川内という。谷川内の地名も、そのことから生れた地名である。



 121. 年見川放水路(としみかわほうすいろ)

年見川から分派し沖水川に合流する延長1.9kmの2次支川。