122. 柳河原(やなぎがわら)川

都城市字広原から流れ年見川に合流する延長3.45kmの2次支川。柳川原は、川原に柳が多く自生していた所と思われる。宮崎市佐土原の地名は「サド草」(たで科の植物)が多く自生していたことから付けられたという説もある。
川沿いの土地に、柳・椎など植物の地名がつく所はいくつもある。



 123. 柳河原川放水路(やなぎがわらがわほうすいろ)

柳河原川から分派し姫城川に合流する延長0.8kmの3次支川。



 124. 姫城(ひめぎ)川

都城市上長飯から大淀川に流れる延長3.8kmの1次支川。現在の姫城町付近に、建武3年(1336)南北朝の乱の時、南朝方の肝付兼重らが立て篭もった姫木城があったと伝えられている。
元は、姫木と呼ばれていたと思われる。姫は、愛らしいものや、美しいものをあらわす語である。姫木城は、現在の都城市役所がある付近にあったといわれている。姫のようにやさしい感じの、なだらかな小高い丘があって、そのように呼ばれたのではないか。美称である。


 堂(どう)橋

旭丘(ひのう)神社の横を下った坂の所に川が流れていて、その上に橋が架かっている。昔、ここに薬師堂があったことから、甲斐元、八幡付近の住民はこの姫城川のことを堂の川(ドンガワ)と呼び、橋を堂の橋(ドンバシ)と称したという。領主館城と甲斐元方面を結ぶ重要な連絡道にあった。
橋は木橋から土橋へと変わり、昭和51年(1976)に今の橋に架け替えられている。幅約5mの小さな橋であるが、今も住宅街を結ぶ役割をもっている。川の近くに都城市教育委員会による説明板が設置されている。

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 上下部(じょうかぶ)橋

都城市役所前から甲斐元方面へ少し直進したところで柳川放水路に架かる。長さ約7m幅約7mの小さな橋で、古く見えるがしっかりした造りである。国道10号と国道269号が通過し、都城市中心地と郊外を結び、交通量もとても多い主要な橋である。
橋名の由来については諸説が伝わる。@昔、姫木城があった頃、この辺りが城の外部にあたるから城外部(じょうげぶ)と呼んだのがいつしか「じょうかぶ」となったという説、Aこの橋を境に侍と町民との身分の上下の区別があったという説等である。

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 姫城(ひめぎ)橋

都城市立図書館前から甲斐元21街区に至る細い路地を下り、上下部橋と新太郎橋の間に架かる昭和47年(1972)竣工の古い小さな橋である。
姫城はかつて旧都城島津領主館(今の市役所)のあった一帯を含む地名である。古くは姫木と書き、今の市役所の近くにあった姫木山に、大隈の豪族肝付兼重の武将が姫木城を築いたことから、後に姫城と書き表すようになったといわれる。当時から姫木山や領主館に通じる主要な役割を持っていた橋である。

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 新太郎(しんたろう)橋

都城市コミュニケーションセンター東川道路を、南へ下り坂を下りかかったところで川に架かる短い小さな橋である。以前は木橋であったが、昭和54年(1979)に今の永久橋に架け替えられている。橋名の由来については、かつて江戸末期に都城領主島津久倫(ひさとも)に仕えた北郷新太郎(ほんごうしんたろう)という武士に関係するという。若いときから江戸の昌平校(しょうへいこう)に学び、また、剣は天神流剣法の達人といわれ、33歳のときには老臣(家老職)に任命されるなど優れた家臣であった。近くの姫木山(今はつぶされ図書館等が建設されている)の麓に居住(屋敷跡あり)していたことから、いつしか地元では新太郎橋と称するようになったという。今でも市役所等に行くのに活用されている。

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 大園(うぞん)橋

早鈴の藤元病院脇を通り、ゆるい下り坂の先の平坦な道路で川に架かる。以前は木橋であったが今の橋も相当に古い橋で基柱は傷み、ツタにおおわれ、橋名も判読できない。車の通行量は結構あり、地域の生活には欠かせない橋である。
大薗は大園橋から今の姫城中学校付近までの地名である。昔ある有力者の庄園(しょうえん)であったことを示すものであろうといわれている。大薗姓の武将の名もみられる。

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 早鈴(はやすず)橋

早鈴の地名から付いた名称。早鈴町14街区の静かな住宅街の中に架かる橋である。昭和44年(1969)竣工で歩道もない短い橋であるが部分改修され欄干は白いガードレールである。人も車の往来も少ないようである。
応永32年(1425)の古い文書(鬼来文書)に早鈴宮の名がある。これは天照大神と豊受大神を祀り、豊耕の神とし、あがめていた早鈴大明神であった。この早鈴大明神の名をとって、この付近を早鈴と呼んだという。今の島津邸はこの神社の跡地に建てられたもので、今も庭の一隅に「早鈴大明神跡」の石碑が残っている。

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 けやき橋

早鈴町の東第2児童公園の入口の近く、高木原緑道(歩道専用)に架かる橋である。周囲にはケヤキの大木がたくさんあり、それがけやき橋の由来になっていると思われる。橋は新しく欄干はブロンズ色で、支柱の間には菖蒲(あやめ)のレリーフが付けられていてきれいである。

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 弁済使(べんさいし)橋

弁済使という地名から付いた名称である。この橋は、姫城川沿いに上弁済使橋と弁済使橋の二つの橋があり、若葉町と上長飯町との間をつないでいる。どちらも以前は木橋であったが、今の弁済使橋は昭和51年(1976)、上弁済使橋は昭和56年(1981)にコンクリート橋に架け替えられている。
弁済使というのは、島津荘とよばれていた荘園時代に、中央への貢納を担当した役人の名称である。地方の有力者が受け持ったので、島津荘の地元にこの名称が残ったと思われる。地域の歴史を考えさせる地名である。

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 125. 姫城川放水路(ひめぎかわほうすいろ)

姫城川から分派し萩原川に合流する延長2.0kmの3次支川。


 昭和(しょうわ)橋

国道222号が通る早鈴町のイオン都城店の近くの、木工団地入口交差点から日南方面へ向かうところに橋が架かっている。昭和58年(1985)の竣工であり、幅員も広く欄干は丈夫な金属パイプで、歩道も備わったしっかりした造りである。郊外の安久町から市内へ入る交通量も多い主要な橋である。昭和の年号名からとった橋名である。

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 姫城(ひめぎ)橋

木工団地横を流れる姫城川が木工団地入口交差点から三股方面へ向かう国道222号バイパスの下を流れる地点で架かっている橋である。
この橋は前述の姫城橋と同名であり、その由来も一緒である。なぜ同じ名を付けたのか分からないが、放水路の最後の橋ということかもしれない。昭和61年(1986)竣工であり、両側の歩道の境にはツツジなどが植栽され欄干は金属パイプ状のしっかりした造りである。

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 野中田(のなかだ)橋

野中田という地名から付いた名称である。野中は、広い平野の中の意味である。この地名は全国にも多くある。場所の状態をあらわしている。このあたりは、都城盆地の中でも平地が広い所である。野中というにふさわしい。
イオン都城店裏側と木工団地の間に架かっている。昭和61年(1986)竣工。

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 126. 萩原(はぎわら)川

萩原も植物からきた地名である。萩が沢山繁茂していたところから、生じた地名と思われる。日南市には、萩之峰という地名がある。
萩原という地名のあるところを流れる川を、このように名付けたのであろう。三股町と日南市の境をなす柳岳(952.3m)連峰の山麓が源流で、延長11.7kmの1次支川である。上流部分は、高畑川になる。


 栄源寺(えいげんじ)橋

橋名はかつてこの地にあった永源寺(今、跡は河川敷)にちなんだものといわれる。国道10号上の甲斐元町の地点で萩原川下流に架かり、対岸は下長飯町に至る。
今の橋は、昭和41年(1966)に架け替えられ、橋の長さ約93m、幅約11mの大きな橋である。都城市内には、多くの寺があったが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、廃寺となった。寺跡には、寺院の名称が地名として残っている。

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 木ノ前(きのまえ)橋

橋名は地名による。木前(きのまえ)は室町時代に見える地名である。萩原川左岸に位置する集落である。下長飯町から甲斐元町交差点への県道(昔の志布志街道)が通り、市外から市内への入口の1つの橋である。交通量も多い。
今の橋は、昭和47年(1972)に竣工した。木ノ前の木は、姫木の木(城)の意味と考えられる。城の前面の意味であろう。

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 萩原(はぎわら)橋

萩原川の名から付けた名称である。萩原の名は、植物の萩が多く自生していたことからできた地名であろう。国道222号が通る安久町と上長飯町を結ぶ橋で、都城市と日南方面をつなぐ。今の橋は昭和50年(1975)に架けられたもので、平成17年に側道橋が設置された。(萩原川の項参照)

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 上高(かみこう)橋

橋名は地名による。橋名のいわれは不明である。
上豊橋を過ぎた地点で県道108号の当地で川に架かり梅北方面に通じる。元は古い小さな橋であったが、今の橋は平成16年新しく架け替えられ、交通利用も多い大きい橋である。

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 上豊(かみとよ)橋

この地域の豊満町と関係がある地名と思われるが、明確ではない。昭和51年(1976)竣工で、県道108号が中郷中心地に入る位置にあり、交通利用も多い。豊満地区が中心地なので、その上手にある意味とも考えられる。豊満(とよみつ)村の名は、明治3年(1870)から使われている。

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 豊満(とよみつ)橋

豊満町はこの地域の地名である。この地名から付いた名称である。豊満町は、江戸時代以前は、田辺村と呼ばれていた。明治3年に豊満と改称された。土地を豊かにという願望がこもった地名である。
昭和51年(1976)竣工の古い橋であるが、平成4年側道橋が設置されている。

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 127. 安久(やすひさ)川

上長飯と安久の境を流れる川で、萩原川に合流する延長3.4kmの2次支川。安久の地名から川の名ができている。南北朝期の応永8年(1375)の史料に、この地名があらわれている。わが国の地名は、古くから、嘉字(意味のよい漢字)二字を当てることが行われたといわれていて、「安久」も島津の祖の忠久が、領内の安穏長久(あんのうちょうきゅう)を願い、その内の二字をとって「安久」と名付けたという。


 後久(ごきゅう)橋

安久町の後久(ごきゅう)地区内で安久川に架かる橋である。後久とはこの地の中心地である安久に対し、後方の地という意味であろう。
古老の話では昔から後久姓の家が多く「ゴキュドンの○○が来た」と言い習わしていたという。昭和58年(1983)に竣工し全体的に古びてはいるが、後久地区と安久町中心をつなぎ地域の生活に欠かせない橋である。

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 安久(やすひさ)橋

橋名は地名による。島津の祖、忠久(ただひさ)が島津の庄を治めるために、当地に堀内御所(ほりうちごしょ〜身分の高い人の役所)を構えた時、領内の安穏長久(あんのうちょうきゅう〜無事におだやかにくらすこと)を願い、その上の二字をとって安久と名付けたという。県道今町三股線の安久の地点で川に架かる。近くの安久交差点に入ると三股方面と中郷方面の二つの道路の分岐点に至る。

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 亀郷(かめごう)橋

亀郷の地区名はなく橋名の由来は不明である。推測すれば安久川上流で川筋も浅いので、亀が多い郷と言う意味だろうか。狭い田畑の中で川に架けられた昭和34年(1959)竣工の小さな橋である。

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 北条(ほうじょう)橋

橋名は地名によるが、その地名の由来は不明である。安久川の源流に近く川幅も狭まり、流水も少ないようである。昭和48年(1973)竣工の小橋で、狭い農道に架かっている。北条という地名から、歴史と関係がありそうな地名である。

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 128. 崩(くえ)川

都城市豊満から萩原川に合流する延長1.8kmの2次支川。崩壊のおこりやすい川ということから、付けられた名前である。
都城盆地は、火山灰の堆積した地形が多い。大雨が降ると崩壊が起こりやすい川であったと考えられる。
串間市には、福島川と善田川に挟まれたシラス台地で、「崩先」(くずれさき)という地名がある。洪水の度に川水の侵食で、崩れやすいところであった。崩川・崩先などは、事実そのものを表した地名ということができる。



 129. 寺柱(てらばしら)川

三股町宮村から流れ、萩原川に合流する延長2.7kmの2次支川。寺柱の由来はよくわからない。お寺を建立する時、柱にする材木を切り出した土地に付きそうな名前である。
三股町の宮村から、牛の峠を越えて旧飫肥領(日南市)酒谷に通じる寺柱往還があって、寺柱番所が置かれていた。


 小鷺巣(こさぎす)橋

享禄元年(1528)都城の新納忠勝という武将が、飫肥の伊東勢と戦った。この時、新納勢は、小鷹原(こだかばる)という谷に水を湛えて深みを作り、そこに作りものの鷺(サギ)を浮かべて、水が浅いように見せかけておいた。進攻してきた伊東勢が、鷺がいるから水は浅いと思い、谷を渡ろうとして深みにはまって敗け戦になったと伝えられている。このことに因んで、鷺巣という地名が起こった。橋の名もこの故事によっている。

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 130. 梅北(うめきた)川

都城市梅北から大淀川に合流する延長5.8kmの1次支川。鹿児島県の曽於市と接する土地である。平安時代に都の貴族・伴善男(とものよしお)の子孫がこの地にきて住み、さらにその子孫がこの土地を梅北と名付けて、自らも梅北氏を名乗ったと伝えられている。梅北川は、土地名を付けた川の名称。一説では梅北の名は、この地で栄えていた西生寺(さいしょうじ)の尋誉上人(じんよしょうにん)が中国に留学し、持ち帰ってきた梅の木を移植したことに由来するとも伝えている。


 中樋通(なかひとおり)橋

橋名は地名による。樋は樋(とい)のことであり、水くみや通水に利用したので、田畑の用水路に関連して付けられたのかもしれない。梅北川の最後の橋であるとともに、国道10号が通り、大岩田交差点から都城市内への出入り口に当たり、昭和40年(1965)の竣工。交通量の多い主要な橋である。

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 玉利(たまり)橋

橋名は地名による。地名の由来は不明である。大岩田のドミニカ学園通りの田畑の中で川に架かる。昭和53年(1978)竣工の橋の長さ約42mの小さな橋である。

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 焼山(やきやま)橋

焼山の地名はなく由来は不明である。大岩田の八反玉利線の田畑の中で川に架かる。昭和45年(1970)竣工で橋の長さ約40mの小さな橋である。

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 城下(しろした)橋

橋名は地区名による。近くの小山に築かれていた梅北城の下部に位置することによると思われる。主要道路の梅北交差点から今町へ続く途中で架かっている橋である。
昭和47年(1972)竣工だが欄干は改修されている。橋の横には大きな水門があり農業用水に活用されている。戦国期には梅北に城が築かれていた。梅北麓は江戸期には都城(島津氏)の六外城(とじょう)の一つであった。城山の麓に城の説明板が設置されて、さらに「天の川・梅北川広場」の標柱と広場があり梅北城に対する愛着も感じられる。

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 柳田(やなぎた)橋

橋名は地名による。柳のたくさんあった田畑一帯を指すと思われる。梅北川の源流辺りに位置し、川筋の道も車1台やっと通れる程度の狭い道である。昭和47年(1972)竣工、長さ約20mの小さな橋である。

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 131. 床丸(とこまる)川

都城市梅北から流れ梅北川に合流する延長4.0kmの2次支川。床丸は、形状を表した名称と思われる。川床が穏やかな丸い形状になっているということから付けられた名前ではないか。明確ないわれは不明である。
川床が一面の岩盤に覆われている川を岩瀬川と呼んでいる。小石の多いところを小石原などと呼ぶのと同じである。山・川などの自然は、形状から付けられる名称が多い。



 132. 村山(むらやま)川

曽於市末吉町の諏訪神社のある諏訪山と村山の間をまわり込むように流れ、大淀川に合流する延長5.5kmの1次支川である。合流点に近い村山付近に、早くから村が開けていたので、村山川と呼ぶようになったのではないかと思われる。
地名は人間の活動と深い関係があって、それに関連して付けられるものである。川沿いの土地で、早くから多くの人間が活動した土地の名が付く場合が多い。



 133. 湯之尻(ゆのしり)川

大淀川の上流が、鹿児島県に入ったところ付近で、支川となる川で延長1.4kmの1次支川である。分岐点の近くの湯之尻という集落が開けている。この地名から付けられた名称である。そのいわれは不明である。湯之尻は、温泉と関係の深い地名である。