「山下渡し」の近くで、渡しの名を取って付けられたと思われる。昔の交通手段は、牛・馬や舟を利用する方法しかなかった。陸路では山越えの峠の下に集落ができた。その集落を山下と呼んだ。山下は藩政時代から明治、大正、昭和6年(1931)まで、勘場(かんば)が数戸あり、山林や農産物の積み出し基地で、筏流し(いかだながし)・帆掛船の発進地であった。
「とこ」〜高岡には渡場が多かった。常に渡舟を利用する家庭は、毎回渡し賃を1銭か2銭支払うのが面倒だから、年間の渡舟料として米3升を前納する習慣があって、このことを「とこ」といっていた。とこの人は大手を振って川を渡る。「常」と書いてトコと読むのではなかろうか。(たかおか10号) |