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 1.大淀(おおよど)川

むかし、高岡地方では大淀川を左流川(さるかわ)と呼んでいた。薩摩藩の関所から見て、左を流れているから左流川(さるかわ)といったと伝えられている。去川山下には「勘場(かんば)(倉庫)」があり、高岡の奥地の産物が勘場に集められ、ここから川舟で大淀川の河口に運ばれていた。
「勘場」〜川端に設けられた倉庫。山下には昭和6年(1931)まで徳永勘場・野崎勘場・山元勘場・松田勘場があったという。山から出された産物はそれぞれ区別された倉庫の中に保管された。


 一ツ葉(ひとつば)大橋

この橋が一ツ葉有料道路の北線と南線を結ぶことに由来すると思われる。この橋は大淀川に架かる橋の中で最下流に位置し、最も長く、現在同川に架かる唯一の有料橋である。一ツ葉という小字はなく、宮崎市東部の大淀川以北の海浜を一ツ葉の浜といい、同河口左岸の潟湖(ラグーン)を一ツ葉の入り江と呼ぶ。
一ツ葉はこの浜にある松に往々に見られる「一葉(=単葉)」に由来する。

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 赤江(あかえ)大橋

小戸之橋の下流側に平成20年度末に開通する予定の橋で、計画段階から架橋工事当初までは「(仮称)新小戸之橋」と呼ばれていた。
宮崎市都市整備部は平成18年11月橋名を公募し、1305通1202種類あったが、赤江を冠した名称は376、赤江大橋(平仮名も含む)は実に353に及んだ。この橋の南側にあたる赤江地区の住民の応募が多かったものと思われるが、同年12月の「橋名称審査会」を経て翌19年1月に赤江大橋と正式に決定された。

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 小戸之(おどの)橋

『日本書紀』に記されているイザナキノミコトが禊祓(みそぎばらい)を行ったとされる「日向の小戸の橘」という神話伝説の地が、大淀川下流域にあったとされる故事に由来する。
小戸之橋には「之」が入っているが、間違って小戸橋(小戸橋参照)と書かれた地図も多い。なお、赤江大橋架橋工事の完工後に小戸之橋の架け替え工事が予定されているが、同じ呼称が使われるかどうかは決定していない。

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 大淀川鉄道(おおよどがわてつどう)橋
この橋は一般には「鉄橋」と呼ばれるが正式には大淀川鉄道橋である。鉄橋は広い意味では鉄材で造った橋、狭い意味では鉄道の通る橋であり、この橋は大淀川を跨(また)ぐ日豊本線の鉄道橋である。大正12年(1923)に小倉〜宮崎〜鹿児島を結ぶ日豊本線が全通したが、その8年前の同4年(1915)に宮崎〜清武間が開通しているので、この橋もこの年に完工したと思われる。
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 大淀(おおよど)大橋
昭和30年(1955)に地元住民による「老松橋(仮称)架設促進同盟」が結成され、架橋要請が始まったが、実際に架橋工事が始まったのは同41年(1966)、完工したのは同46年(1971)である。工事途中も老松橋の呼称で新聞には記載されているが、同45年(1970)宮崎県都市計画課が橋名を公募し、1702通123種類の中から大淀大橋に決定した。だが今なお老松橋という仮称はよく使われている。
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 橘(たちばな)橋
初代橘橋は大田村中村町の医師福島邦成が独力私費をもって明治13年(1880)に架設した。この際、福島氏が鹿児島県令(当時宮崎県は鹿児島県に併合されていた)に提出した『大淀川仮橋架設提示につき届』の第一条に「橋名は橘橋と相称すべし」と記しているように福島氏自らが「橘」を橋に冠している。その橘の由来について福島氏は何も述べていないが『日本書紀』に記された「小戸之橘(小戸之橋参照)」に由来すると思われる。
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 天満(てんまん)橋

この橋の南側にある天神山にある宮崎天満宮に由来する。
天満(宮)は菅原道真公を祀る神社の意で、天神は元々徳の高い神を指し、天満宮とは別であった。菅原道真は平安前期の人であるが、学才にすぐれていたので、学問の神様として天満宮に祀られることになった。
同橋の架橋計画は昭和5年(1930)にさかのぼり、当初は天神山の東側を結ぶ予定であったが、同40年代に西側に変更され、この時点で天満橋の呼称がすでに誕生している。大阪の天満橋は「てんまばし」と読む。

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 高松(たかまつ)橋

この橋が高松通りの西側延長線上に架かることに由来する。
高松通りが開削されたのは明治43年(1910)であり、その際に宮崎県立病院(現県立宮崎病院)の北側の堺橋墓地にあった高い松にちなんで名付けられたとされる。
俳人・種子田山頭火(さんとうか)の日記の昭和5年(1930)9月28日に「(生目神社参拝後)帰路は近道を教えられ高松橋を渡る」(渡し銭三銭)と記されており、生目神社参拝の近道であったことがわかる。

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 宮崎(みやざき)大橋

この橋は当初何故か「(流失した)高松橋本復旧工事」として昭和28年(1953)2月に始まったが、同32年(1957)5月の完工時に、突然宮崎大橋という呼称に変わった。昭和42年(1967)に国道10号として、宮崎市街地に向かう中心道路となる役割が期待されて「宮崎」を冠されたのかもしれない。なお、架橋工事完工後となる昭和33年(1958)の宮崎市勢要覧の地図には同橋に何故か「高千穂橋」と記されている。

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 大淀川水管(おおよどがわすいかん)橋

水道橋という人もいるが、宮崎市水道局によると大淀川水管橋が正しい呼称である。宮崎市の水道施設は創設以来左岸に建設され、右岸地域には、6本の橋に配水管を添架(てんか)して配水していた。しかし富吉浄水場の完成により右岸への配水が始まり、さらに左岸地区への配水強化と災害・事故時等に両岸の交互配水ができる水管橋が完成した。昭和55年(1980)のことである。

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 平和台(へいわだい)大橋

この橋は昭和50年(1975)に「下北方橋(仮称)」として計画決定し、同62年(1987)に架設工事に着工、平成9年4月に完工した。宮崎市は工事中の昭和63年(1988)9月に橋名を公募し、翌平成元年1月に664通の中から平和台大橋と決定した。
この橋の左岸の、宮崎市下北方町の丘の上にある平和台公園が、橋名の由来である。

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 相生(あいおい)橋

この橋の付近に相生という小字はなく橋名は地名由来ではない。
橋の架設工事は昭和25年(1950)に始まったが、工事半ばに台風によって左岸側が流失、その後完成されたと思われるが、同29年(1954)の台風で再び左岸側が流失した。結局残された右岸の木橋はそのままに、流失した左岸側を永久橋とする災害復旧工事によって、木橋と永久橋の合体という奇妙な橋となり昭和32年(1957)に完工した。この時に相生橋と名付けられた。
相生(そうせい)とは、互いに生み出す、相手を生み出すという意味であり、木橋と永久橋の癒合(ゆごう)した橋であったために名付けたのかもしれない。

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 花見(はなみ)橋

ここの大淀川左岸一帯を花見地区といい、その地名から付いた名前である。ここは大淀川が大きく湾曲し、自然堤防ができていた。それは「ハナミ」(端水・端回・端波・鼻曲・鼻水)と呼ばれていた。
この橋は宮崎から高岡を通る主要な橋で、明治の終わりごろに木橋が架けられたが、木橋のため大水で流失することが度々であった。昭和25年(1950)に永久橋が架けられた。しかし、老朽化したので花見改良事業として、平成17年3月長さ約260mの現在の花見橋が完工した。

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 大の丸(だいのまる)橋

薩摩街道の高浜筋に「大丸渡し(だいまるわたし)」があった。そこのすぐ下流に架けられた橋で、渡しの名から付いたと思われる。
「だいのまる渡し」の名は、大淀川が大きく湾曲し流れていることから付いたと思われる。五町(高岡の中心)と高浜(大の丸)を結ぶ重要な橋である。
現在の大の丸橋は、近代的ア−チ式の橋で、昭和54年(1979)3月に竣工した。

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 楠見(くすみ)大橋

右岸の楠見と左岸の狩野を結ぶ橋で、平成14年6月に竣工した新しい橋である。ここは「楠見渡し」の所で、その名から付けられたと思われる。山に楠木(クスノキ)が多かったことから楠見と呼ばれたと思われる。

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 柚ノ木崎(ゆのきざき)橋

柚木崎(ゆのきざき)には山城があり、城主に柚木崎丹後守(ゆきざきたんごのかみ)の名がみえる。地名はそこから付いたと思われ、橋の名の由来もそれによるものと考えられる。
昔は、楠見・長崎の山道を利用して往来していたが、明治以降対岸に国道が開通してからは渡船となった。「柚木崎の渡し」といい、渡船一艘が、おかれていた。

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 仁反尾(にたんお)橋

この橋は仁田尾と対岸の面早流(もさる)とを結ぶ橋で、昭和42年(1967)竣工した。
「仁反尾の渡し」から付いたと思われる。仁田尾の地名の由来は、仁田尾川の低地と奥深い山々に囲まれた地形から付いたのではないだろうか。
昭和6年(1931)大淀川第二発電所ができたとき、発電所の上流100m位の所に潜水橋が架けられてから渡船はなくなり、面早流との往来が便利になったが、大水が出ると足止めとなった。

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 面早流(もさる)橋

この橋は昭和42年(1967)竣工した。大淀川左岸の面早流(もさる)の地名から付けられたと思われる。ここは川の流れが激しく早流川(さるかわ)と呼ばれ、薩摩街道から見ると川面がキラキラ光って見えたので面早流と付いたという。

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 唐崎(からさき)橋

「唐崎の渡し」から付いたと思われる。唐崎の地名は川の蛇行によってできた地形から付いたと思われる。蛇行の先端に小石が集り、積もって唐州(からす)をつくる。その唐州の先という意味である。
昭和42年(1967)国道10号線バイパス通過で架けられた橋である。

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 山下(やました)橋

「山下渡し」の近くで、渡しの名を取って付けられたと思われる。昔の交通手段は、牛・馬や舟を利用する方法しかなかった。陸路では山越えの峠の下に集落ができた。その集落を山下と呼んだ。山下は藩政時代から明治、大正、昭和6年(1931)まで、勘場(かんば)が数戸あり、山林や農産物の積み出し基地で、筏流し(いかだながし)・帆掛船の発進地であった。
「とこ」〜高岡には渡場が多かった。常に渡舟を利用する家庭は、毎回渡し賃を1銭か2銭支払うのが面倒だから、年間の渡舟料として米3升を前納する習慣があって、このことを「とこ」といっていた。とこの人は大手を振って川を渡る。「常」と書いてトコと読むのではなかろうか。(たかおか10号)

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 樋渡(ひわたし)橋

橋名は、かつてこの付近に渡し場があったことによると考えられる。樋(ひ)というのは水道を引く樋(とい)のことであり、昔は竹や木で造った樋を通して水を引いていたので、樋渡の地名が付いたと思われる。
国道10号高城町有水交差点から高崎町に向かう県道有水高原線上、高崎町轟の地点で大淀川に架かる。
現在の橋は昭和51年(1976)に架け替えられ、幅約9.5m長さ約260mの大きな橋であるが、以前は木橋であった。藩政時代、この辺りの高崎郷の縄瀬村は鹿児島の垂水島津領の飛び地(藩外の領地)であり、年貢米(ねんぐまい)を納める大きな米蔵が建てられていたので蔵元の地名が付いたという。すぐ下流の轟の観音瀬には江戸時代に都城島津領主・島津久倫(ひさとも)が家臣の藤崎公寛(きみひろ)に命じて開削した水路があり、樋渡場周辺は舟運で賑わっていたという。

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 霧島(きりしま)大橋

橋名はここから遠望する霧島山の雄大な姿と、たくましさを讃(たた)えて付けられたといわれ、地元の人々の要請によるともいわれる。
縄瀬小学校前の広域農道の坂道を下った地点の大淀川に橋が架かる。川の流域は広く、一帯には豊かな田畑が広がっている。藩政期には、ここにも渡し場があったという。その後木橋が架けられているが、洪水等で橋が流失したのでコンクリート橋に架け替えられた。現在の橋は、昭和58年(1983)に架け替えられているが幅は約9.5mあり、車の往来に支障もなく、地域の農道にも利用されている。

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 天神(てんじん)橋

橋名は、この地に鎮座(ちんざ)する菅原神社に由来するといわれる。
菅原神社の祭神は菅原道真で、勉学の神として尊敬されている。別名菅原天神とも呼ばれ、都城盆地でも各地に多数建立されている。昭和42年(1967)、木橋から現在の永久橋に架け替えられているが、幅4m程で歩道もなく車1台しか通れない小さな橋で安全面に要注意である。
かつて、藩政時代には農業が栄え、ここにも「天神の渡し」があったといい、橋の下水流(しもづる)側の近くには地元有志の手による「天神の渡しの説明標柱」がたてられている。村おこしの一環としての、人々の「渡し」に対する愛着も感じられる。

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 王子(おうじ)橋

橋名は国道221号上の下水流(しもづる)に鎮座する王子神社に由来すると思われる。王子神社の祭神は火照命(ホデリノミコト)であり、創立時は不明である。霧島神宮の「一の皇子」と称され、古来から人々に尊崇されていたという。一時期失われていたが、氏子の人々の熱意により昭和21年に再建され今も大切にされている。
橋は広い田畑地帯の一角をゆるやかに流れる大淀川の中流に架かり、志和池、上水流(かみづる)と高城を結ぶ県道46号にある橋で、橋が架かる前は渡し場があり、人々の往来で賑わっていたという。昭和33年(1958)木造橋が架けられ、昭和41年(1966)に今のコンクリート橋に架け替えられている。古びて見えるが長さ約253m幅約6mの大きな橋で交通量も多い。

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 高木(たかぎ)橋

橋名は地名による。高木は大淀川上流右岸に位置し戦国期にも見える地名である。この辺りは高木原一帯に属しているが、高木原の地名は高い所にある野原という意味で、大淀川からの利水ができず原野と畑地が多かった。
大正4年(1915)に高木原用水路の完成により開墾(かいこん)が進み、今は住宅街と田園地帯が広がっている。以前は木橋であったが、昭和40年(1965)に現在の橋が架けられた。長さ約270mの橋で、幅が狭く車1台分しか余裕がないものの、橋の中央部だけは外側に広くせり出して作られ、車の離合ができるように工夫されている。珍しい構造である。

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 大淀(おおよど)橋

橋名は大淀川による。大淀川上流の沖水橋から続く国道221号にある。大淀川が大きく湾曲する太郎坊の地点に架けられた大きな橋である。対岸は上水流町へ通じている。以前は木橋であり、昭和24年(1949)に永久橋に架け替えられた。現在の橋は昭和42年(1967)に架けられているが、その後一部改修が進み、今は水色の吊り橋式の側道橋がシンボル化しているといえる。対岸には市民運動広場も設けられ多様な活動に利用され、またその先の丘陵には戦国時代に築かれた志和池城跡公園も見える。

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 大淀川(おおよどがわ)橋

宮崎自動車道が高木地区付近の田畑地帯を通り大淀川にさしかかる地点で架けられた高架橋であり、昭和55年(1980)の建設である。大淀川の名を橋名としている。

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 広瀬(ひろせ)橋

橋名は地名による。大淀川の上流で太郎坊の広瀬地区に架かり、対岸は野々美谷町の麓(ふもと)に至る。瀬は浅い川をさし、以前この一帯は広い浅瀬になっていたことから付けられたと思われる。今、太郎坊あたりの大淀川流域は田畑が広がり、橋は農道の役割も果たしている。

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 乙房(おとぼう)橋

橋名は地名による。乙房は元は都城市庄内町の一部で東流する庄内川の南沿いに、帯状に広がる集落であるが地名の由来は不明である。
県道財部庄内安久線が通り、広大な田畑地帯の金田地区と乙房市街地の境の大淀川に架かる。車の往来も多く主要な橋である。昭和7年(1932)木橋が架けられていたが、昭和29年(1954)台風で流失し、昭和31年(1956)に永久橋に架け替えられている。平成2年に大規模改修がなされ、平成6年に部分改修により側道橋も架けられている。基柱には水鳥のレリーフが付けられ優美である。

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 今平(いまひら)橋

橋名は地区名による。地形からきた地名ではないかと思われる。
大淀川流域の乙房町と、吉尾町に開けた広い平地の田園地帯であることに由来すると思われる。日向庄内駅の東部を流れている大淀川上流に位置する乙房町の今平地区に架かる橋である。橋は以前は木橋であり昭和56年(1981)にコンクリート橋に架け替えられているが、車1台がどうにか通行できる幅員で、歩行にも留意する必要がある。

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 赤星(あかぼし)橋

橋名の赤星の由来は不明である。橋の左右はやや坂状であり、橋路面も中央が湾曲していて橋脚はアーチ状である。
国道10号の市場入口交差点からの市道が、下川東の市水道局前を通過した時点で大淀川に架かり、対岸の公設卸売(おろしうり)市場を通り、すぐ先の志比田北交差点へ達する要路の橋である。

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 志比田鉄道(しびたてつどう)橋

JR吉都線の上に架かる陸橋である。志比田は地名である。橋まで到達する両端の道路は軽い坂道状態であり橋中央も軽く湾曲しているので、余り見通しがよくない。昭和54年(1979)に架けられているが全体的に古く見える。(志比田のいわれは志比田橋の項)

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 志比田(しびた)橋

橋名は地名による。志比田は大淀川と支流・横市川の流域に位置する。
昔、ここには池があり、湿田も多かった。当地の方言では「しみでる」を「しびでる」ともいうことから「水がしびでる田」が「しびた」になり後に志比田と書き表すようになったという。昭和24年(1949)には木橋が架けられていたが、今の橋は昭和57年(1982)コンクリートの永久橋に架け替えられている。
志比田町と大王町をつなぎ交通利用も多い主要な橋である。

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 平田(ひらた)橋

橋名は地名による。地形から付けられた名で、大淀川流域の平地に田畑が開かれたことに由来すると考えられる。大淀川が上流でやや湾曲する平田の地点で橋が架かり、西宮丸町交差点と都原町を結ぶ道路が通っている。
近くには志比田南団地もあり、市民の生活に必要な橋の一つである。

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 上平田(かみひらた)橋

橋名は平田の地名による。平田橋の一つ上流、西宮丸交差点から都島町へ向かう市道上にかかっている長さ約14.8mの橋である。
市街地にあり交通量も多く、平田橋での混雑緩和の目的で昭和46年(1971)に架け替えられているが、昭和61年(1986)に一部改装され、基柱と欄干には水鳥のレリーフが施されている。近くには、市内ではよく知られた八坂神社が鎮座(ちんざ)している。

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 二厳寺(にごんじ)橋

橋名は近くにある二厳寺跡に由来する。二厳寺は、室町時代に領主・北郷義久の次男・秋江和尚が創建した寺院で、北郷一族や地区民に尊崇(そんすう)され、栄えていたという。その後明治のはじめに廃寺となった。今は、北郷一族の墓地として市の文化財となっている。竹之下橋の一つ下流の橋であり、鷹尾と宮丸町をつなぐ市道に架かる。昭和23年(1948)頃は木橋であったが、昭和46年(1971)に現在の永久橋に架け替えられた。欄干は低く幅も狭く人や車の往来は少ない。

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 竹之下(たけのした)橋

橋名は地名による。バス停表示名は岳下(たけのした)と書かれている。
上流にはかつて都之城(今の歴史資料館)が築かれ、重要な橋であった。当初は渡し場があり、広い川原は縁日に市が立ち賑わったという。寛政2年(1791)に都城領主・島津久倫(ひさとも)が家臣の藤崎公寛(きみひろ)に命じて、下流の観音瀬の開削(かいさく)に成功したことで、ここから宮崎の赤江港に至る約70kmの舟路が開削され水運の拠点として大変賑わった。
江戸時代の木橋は現在の位置より約90m上流にあった。明治時代に現在の場所に石橋が架けられた。そのとき基柱に誤って「岳下橋」と掘り込まれたことから、今もその名が残ったという説もある。左岸の台地の端が崖となっていて、崖を「たけ」ということから、崖の下〜竹の下となったことも考えられる。
現在の橋は昭和54年(1979)に架け替えられたもので、橋の中央部が丸くなったアーチ状の橋である。都島寄りの橋のたもとには市教育委員会により「竹之下大橋と西町の歴史」の説明板が建てられている。

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 歌舞伎(かぶき)橋

橋名は地名による。昭和23年(1948)頃は木橋であった。昭和40年(1965)コンクリート橋に架け替えられたものである。今では基柱も欄干も相当古く、幅約4.5m、長さ約140mの古橋で特異な外観を持つ橋でもある。人や車の往来は少ない。
歌舞伎橋の名のいわれについては諸説がある。@芸能を好んだ島津の殿様(氏名不詳)が、ある時の祝宴で歌舞伎役者を招いてから橋を渡らせたという説、A橋下の広い川原で人々が歌舞音曲(かぶおんきょく)を楽しんだという説などが伝わっている。

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 大岩田(おおいわだ)橋

橋名は地名による。都島と大淀川を挟んだ大岩田集落はかつて「お祝い田」といわれ、身分の高い人たちに特別に与えられた祝い田であったという。後に大岩田と書き表すようになったといわれている。
都島にある島津墓地から大岩田交差点まで続く狭い道路の中間で、大淀川に架かっている。以前は木橋であったが、今の橋は昭和30年(1955)頃架け替えられた小橋である。現在は車も人も往来は少ない。

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 天長寺(てんちょうじ)橋

都島町と大岩田町間に架かる橋である。橋名は都島にある天長寺(高野山真言宗)に由来する。天長寺は天文7年(1538)都城8代領主・北郷忠相(ほんごうただすけ)が祈願の道場として開いた寺である。明治時代に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・お寺を廃すること)で廃寺となったが、昭和になって信者達の熱意により、今の地に新たに再建された。著名な寺の一つである。
今は国道10号と国道269号が通り、大岩田交差点から都城市街地に向かう最初の重要な橋である。昭和24年(1949)頃は木橋であったが、昭和41年(1966)に現在の永久橋に架け替えられた。長さ約141m、幅約8mの大きな橋である。

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赤江(あかえ)橋架橋碑  
大正12年(1923)12月、初代橘橋架設に遅れること44年、大淀川下流域において2番目の橋である赤江橋が、架橋組合によって大淀川鉄道橋のすぐ下流に架設された。この橋は4回架設されたが、昭和11年7月の暴風雨によって流失し、その後は架設されていない。だが吾妻町に今も赤江橋架橋碑が残されており、この地にかつて橋があったことを今に伝えている。
高松(たかまつ)橋記念碑  
高松橋は大正14年(1925)架設組合により賃取橋として架設されたが、経営上幾多の困難があり、昭和6年(1931)12月に宮崎市に移管された。解散せざるを得ない架設組合が、おそらくは自らのその業績を後世に伝えるために、市への移管後の昭和7年(1932)2月に高松橋記念碑を建立している。その碑文には「(高松橋は)市の中央に位置し、完成を告げんとする橘橋と相まって将来市の発展に寄与する所、蓋(けだ)し大なるもの・・」と記されている。現在記念碑は小戸神社に隣接する中水流児童公園内にある。
本町(ほんちょう)橋鎮魂碑  
昭和2年(1927)8月11日台風による増水のために大淀川下流域に架かる3本の橋(高松橋、橘橋、赤江橋)は全て流失した。この非常時に対して橘橋下流、現在の本町通線延長線上に熊本工兵隊によって架設された橋が本町橋である。昭和16年(1941)の台風によって流失し、その後再架橋されていないため現在その姿を見ることはできない。橘公園内には架橋工事で亡くなった二人の工兵と事故で亡くなった人の鎮魂碑があって、ここに本町橋があったことを今に伝える。
大淀川第一床止(おおよどがわだいいちとこどめ)
昭和30年代頃より、上流でのダム建設、下流での砂利採取などで大淀川の水位が下がり、渇水時には上北方の水源地の下流約500mにある左岸の大宮、右岸の下小松両農業灌漑用水路でポンプアップできない状態が生じていた。そのため昭和46年(1971)に両岸を結ぶ川中の川床を安定させるための川床止めが作られ、両用水の揚水が容易になるとともに、水源地付近の水位も安定し、上水道の安定供給にも役立った。
高岡五橋(たかおかごきょう)
柚ノ木崎橋・仁田尾橋・面早流橋・唐崎橋・山下橋をいう。明治以降左岸を走っていた国道10号線の全面改良事業が、昭和41年(1966)に開始される機会に、住民の強い願いで架けられた橋である。大淀川に五つの橋が架けられたことで地区内が結ばれた。それまでの不便な渡船から解放されることになった。
 
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