2.八重(やえ)川

大淀川の支流。古くはハエ川といった。七重八重に折れ曲がるように流れていたので、この名がある。明治初期までは流域の各地で呼び名が異なっていた。上流部の古城では不清溝(すまずみぞ)、もう一つの上流加納では浜手溝といい、両溝は曾井城跡の下、二股河(ふたまたご)で合流する。この二つの川が合流する源藤辺りを源藤川といった。それから東に流れ恒久で八重川となり、田吉で八重川と呼ばれ東前島で大淀川に合流する。両国橋より下流は両岸が高くなり、農業用水に活用することが困難であった。
源流は古城の大谷山と清武町加納の西側山地、延長7.6kmである。支流に山内川、新溝、中溝がある。浜手溝の名称は、上流部の地名浜手による。


 番所(ばんしょ)橋

八重川下流、番所下(地名)に架かる。橋の名称は地名による。明治初期は前島板橋と呼ばれ、長さ約23mであった。
「日向国那珂郡之内」という絵図に、江戸時代の赤江の様子が描いてある。それに大淀川河口付近右岸に津口(つぐち)番所とある二階建ての建物が描いてある。八重川が大淀川に合流する辺りである。番所とは、江戸時代、道路や港など交通の要所に設け、通行人や船の出入りを見張ったり税をかけたりした所、津とは船着場、港のことである。津口番所は外国船を見張るほか、大淀川を行き来する船や上方など他所からの船の出入りを監視した。

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 新八重川(しんやえがわ)橋

八重川下流に架かる。明治初期、商人町として栄えた城ヶ崎町南端にあり五丈の板橋と呼ばれた。長さ約27m幅3.6mで欄干もある本格的な木造橋であった。
江戸時代、中村町から城ヶ崎、熊野、内海などを経て鵜戸神宮へ行く主要な道路(鵜戸神宮住還)が通っており、人通りが多かったと思われる。

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 上代(うわだい)橋

八重川の中流、旧国道220号に架かる。橋の名称は地名による。昭和17年(1942)、日本海軍赤江飛行場が建設されることになり、物資輸送の効率化を図るために新たな道路が建設され、それに伴って架設された。それ以前大淀から赤江へは、宮崎軽便鉄道の大淀駅(現在、JR南宮崎駅)の南から、赤江町役場(宮崎市赤江地域センター)を経て赤江に到る道が主な道路であった。沿線に人家や建物などがない水田地帯に建設された。
大淀から赤江への道路設置の重要性は、宮崎市でも考えられていて、宮崎市は昭和2年(1927)の都市計画法によって、宮崎市と宮崎郡赤江町の区域を宮崎都市計画区域に決定し、道路建設を計画している。飛行場建設に伴って造られた道路は、都市計画区域図に示された道路と一致する。なお、赤江町が宮崎市と合併したのは昭和18年(1943)であるため、宮崎市の都市計画区域案は行政区域をこえた計画であったことが分かる。

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 両国(りょうごく)橋

八重川の上流である源藤川に架かる。明治初期は源藤板橋といわれた。江戸時代、八重川の上流である不清溝(流域古城)と浜手溝(流域加納)の合流する辺りから下流を源藤川といった。現在の宮崎市源藤と同市横町が相対する地点に架かる。国道220号、通称青島バイパスが国道269号と交わる地点である。
江戸時代、源藤は延岡藩領、横町は飫肥藩領であった。二つの藩、つまり二つの国を結ぶという意味で両国橋といった。また、二つの藩が協力して架けたということで寄合橋(よりあいばし)ともよばれた。明治初期の『日向地誌』によると、長さ約20m幅約2mで欄干があった。欄干があるということから当時としては本格的な橋であったことが分かる。現在は片側2車線のコンクリート橋になっている。

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 源藤(げんどう)橋

八重川の支流、明治初期は浜手溝といった川に架かる。江戸時代は都城を経て鹿児島へ行く鹿児島街道と、清武を経て飫肥へ向かう飫肥街道(源藤では両街道が重複していた)が通り重要なところであった。源藤は延岡藩で飫肥藩清武郷加納と接し、源藤橋のすぐ南、宮崎市と清武町の境に藩境碑が建っていた。清武町加納にあった碑には「従是南飫肥領(これよりみなみおびりょう)」、宮崎市源藤にあった碑には「従是北延岡領(これよりきたのべおかりょう)」とあり、前者はきよたけ歴史館、後者は景清廟に保存してある。
源藤橋の北東、地元で「寺ん堂」と呼ぶ丘(現在団地となっている)がある。寺堂とあることから古くは長命寺という寺があった。天正15年(1587)、伊東祐兵(すけたけ)が曾井に入封(にゅうふう)し、翌年飫肥へ移る際、伊東家の旧臣・漆野能登守(うるしののとのかみ)ら29人が、祐兵に反抗し長命寺に立て籠もり鎮圧された。この叛乱で長命寺は壊れ、その後に最勝寺が建立されている。(長命寺の乱)

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 武士町(ぶしまち)橋
八重川の支流、明治初期は浜手溝といった川に架かる。橋の名称は武士町という地名による。武士町という地名のいわれは不明。ただ、江戸時代この地は飫肥藩で延岡藩(源藤)と接していたことから、警備の武士が住んでいたということが考えられる。
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 槙の札(まきのふだ)橋

八重川の上流支流、明治初期は浜手溝といった川に架かる。橋名は地名による。源藤橋から国道269号を清武に向かうと追分という所に至る。ここは鹿児島街道と飫肥街道が分かれる所で地名も追分(現在加納5丁目)となっていて、左に折れると飫肥街道となり槙の札に至る。この橋は槙の札と追分の間に架かり、明治初期は槙の札土橋といい、長さ約15m幅約3mの橋であった。
「追分」〜道の左右に分かれる所。分岐点。各地に地名として残る。(『広辞苑』)

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 前島(まえじま)橋
八重川下流に架かる。橋の名称は地名の前島による。明治初期に架かっており前島板橋と呼ばれた。長さ約21m、幅約1mであった。河川改修が行われ、流域が移ったため所在が不明となる。
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 福島(ふくしま)橋
八重川下流に架かる。橋の名称は福島(古くは今江)という地名による。明治初期、前島板橋と呼ぶ長さ約21m、幅約2.4mの橋が架かっていた。
江戸時代、福島は大淀川下流右岸、八重川下流域にあった村で、延岡領であったが後に幕府領となった。福島村は寛文2年(1662)に起こった外所(とんところ)大地震による大津波で村が消滅し、村民は村からおよそ4km上流、大淀川右岸の同じ延岡領であった今江(現在の福島町)に移った。海没した村には土砂が堆積して潟ができ、人々も移住し元のように村となったが、明治12年(1879)田吉村に編入された。
寛政4年(1792)、高山彦九郎は、城ヶ崎の太田可笛らを訪問した際、一宮大明神夏越の祓いに出会って、神輿とともに海岸で禊(みそぎ)し、高畠や田吉を経て住還5丁の橋を渡って城ヶ崎へ帰っているが、この橋が前島板橋と思われる。
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 3.大坪前(おおつぼまえ)川

清武町加納から流れ八重川に合流する延長1.1kmの2次支川。大坪は地名による。古くは千束溝といった。


 大坪前(おおつぼまえ)橋

八重川の支流、明治初期に千束溝といった川に架かる。ここは鹿児島街道が通り人や物資の往来が多かったといわれ、長さ約7m、幅約3.6mの橋が架かっていた。下流に追分という地名があり、そこは鹿児島街道から飫肥街道へ分かれる所であった。地名「大坪」の坪は、田の一画、古代条里制(こだいじょうりせい)における小区画などをいい、田の区画が多くあったので大をつけ大坪となったと思われる。
また、大坪前の大字地名・加納も中世に追加開墾を認められた土地に付けられた地名で、草木を焼き払って開墾した土地、刈り野が語源という。

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 4. 津屋原沼(つやばるぬま)

地元でタンポリと呼ぶ入り江が飛江田にある。一般に水溜りや溜池、溝、くぼ地、入り江などをタンブリ、タンポ、タンボリ、タンボというが、タンポリも同じ意味である。
この地は津屋原村の一部、個人の田畑で水稲や野菜を栽培していた。日本海軍は昭和17年(1942)から赤江町に飛行場建設を始めた。建設予定地内の津屋原、高畑、田元の村民は立退きを命じられ三つの村は消滅した。現在、宮崎空港の滑走路や空港施設になっているが、そこには水田が広がっていた。飛行場建設は水田だった所にグリ石を並べ、そこに浚渫船(しゅんせつせん)で吸い上げた土砂をトロッコで運んで埋め立てたという。その土砂を吸い上げた跡が津屋原沼となった。



 5. 山内(やまうち)川

八重川の支流。郡司分の岩切新溝から本郷北方へ流れ、さらに田吉へと続き福島辺りで八重川に注ぐ延長4.4kmの2次支川。川の名称は中流域にある山内の地名による。源流は清武町加納の界田溝であるが、寛永17年(1640)松井五郎兵衛が開削した用水路(岩切新溝)から枝分かれした水路の末端が、山内川に流入するようになり、清武川がもう一つの源流となる。宮崎空港滑走路の西側で直線的に北流しているのは、昭和17年(1942)から着工された海軍赤江飛行場建設で流域を変えられたものである。飛行場建設以前は田元村と高畑村の東、津屋原村の西を、現在の滑走路を横断するようなかたちで流れ、八重川に合流していた。
田元・高畑・津屋原は飛行場建設のため日本海軍に移転させられて消滅、田元・高畑両村は宮崎空港に、津屋原は緑松地区になっている。なお、明治初期、八重川の下流を垂門川(たるかどがわ)と称し、上流部支流に津和田溝、苗代迫溝(なわしろざこみぞ)、鵜戸ノ尾溝、高山溝などがある。源流の界田から八重川合流点まで延長7.6km。


 津和田(つわだ)橋
津和田溝(山内川支流)に架かる。津和田は地名である。津は港、和田は平たんな土地に広がる田んぼの意味。明治初期、鵜戸神宮住還(旧国道220号)に架かっており津和田土橋と呼ばれた。長さは約10mであった。現在、橋は欄干もなく津和田溝も狭くなっており、気をつけて見ないと橋も川も見落としがちである。
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 山内(やまうち)橋

山内川中流に架かる。橋の名称は山内という地名による。この橋は江戸時代商業が盛んであった赤江町の南部にあり、明治初期、鵜戸神宮住還(旧国道220号)に架かっており、山内川土橋と呼ばれた。長さはおよそ25mあった。
赤江は城ヶ崎の東にあった商業の町であったが、寛文2年(1662)の大地震による大津波で被災し現在の赤江に移った。また、赤江という地名の由来は、大淀川河口に可愛(かえ)という入り江があって、大淀川とつながっており、川の名前も可愛川と呼んだ。それがなまって赤江川になったという。ところで、可愛はエといい、『日本書紀』に「ニニギノミコトが亡くなったので筑紫(つくし)の日向可愛之山稜(ひむかのえのみさざき)に葬(ほうむ)った」とある。

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 6. 山崎(やまざき)川

本郷南方から流れ山内川に合流する延長1.3kmの3次支川。山崎は地名である。山の先端部にあたる土地に付く名称。



 7. 園田(そのだ)川

八重川の支流。大坪池の東を源流として東南に流れて、上代(うわだい)で八重川に合流する。延長1.5kmの2次支川。園田は地名、田んぼの広いところに付く名称。



 8. 古城(ふるじょう)川

八重川の支流。古くは不清溝(すまずみぞ)といった。川の名称は古城の地名による。古城のいわれは、伊満福寺に連なる山の尾根に、曾井城が築かれる以前に城があった。
新しい曾井城に対して古い城、つまり古城といったことから地名になった。
源流は古城の西にある大谷山、東に流れ二股河(ふたまたご)で加納から流れる浜手溝に合流する。延長5.3kmの2次支川。支流に大谷溝、加那江溝、和田内溝、六反田溝、牟田溝がある。
応永19年(1412)、曾井城をめぐって都於郡(西都市)の伊東氏と薩摩(鹿児島)の島津氏が争ったが、源藤川(古城川が八重川に合流するあたりと思われる)に島津勢が追い詰められ、鹿児島へ敗走している。


 山之城(やまのじょう)橋

古城小学校近く古城川に架かる。橋の名称は地名・山之城による。古城小学校の北に独立した山があり、その峰に山ノ城という城があった。この城は伊東祐時(すけとき)の第7子、門川祐景(すけかげ)の子孫が城主で山ノ城氏を名乗った。

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 持田(もちだ)橋

古城の西部持田にある橋、古城川に架かる。橋の名称は地名による。明治初期、持田石橋とよぶ長さ約3.6m、幅約3mの橋が架かっていた。持田橋の脇に石橋供養塔が建っている。この供養塔は豊後国行田小宛(大分県豊後大野市)の六十六部である新平という人物が、石造橋を架けたもので、架けた年は不明、戌(いぬ)年十一月と読め、江戸後期と思われる。村人は感謝し供養塔には古城村庄屋押川十九郎や村役などの名前も彫ってある。
新平のように他所の者が石橋を架けたのは、宮崎市熊野や国富町仮屋原にもある。熊野の石橋は大坂の六十六部・久右衛門が文化10年(1813)2月に架けたもので、石工は古城の庄兵衛と佐正である。仮屋原の石橋は江戸の六十六部・浄戒が、文化11年(1814)4月に架けたものである。明治初期の持田石橋は新平が架けた橋と思われる。
「六十六部」〜全国六十六ヶ所の霊場(神社・寺院など)を廻って修業をする人のこと。

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 曾井(そい)橋

曾井城址(そいじょうし)の東、古城川にかかる。橋の名称は地名による。曾井城は伊東氏の支族曾井祐善(すけよし)が築城したと伝えるがその年月は不明。中世には鹿児島の島津氏と日向の伊東氏が争奪(そうだつ)をくり返すが、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州出兵で功績のあった伊東祐兵(すけたけ)は曾井城に入城し、再び伊東氏が領有した。なお、曾井城址の南、曾井橋がある一帯は御城下(おしろした)という地名がある。

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 後東寺(ごとうじ)橋

古城川に架かる。橋の名称は古城川左岸の地名、後東寺迫による。後東寺という地名は迫の西に護東寺という真言宗の寺があったことによる。当寺は延宝5年(1677)に伊満福寺(いまふくじ)49世頼雄法印(らいゆうほういん)が開山した寺で、頼雄法印没後は、その弟子の南照院が継いでいる。南照院は宮崎やその周辺に多くの仏像を残した串間延寿院(くしまえんじゅいん)・円立院(えんりゅういん)の祖で、延寿院らは本寺の住職を勤め、後東寺迫墓地には円立院一族の墓石が残っている。

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 9. 北川内(きたかわち)川

古城川の支流。川の名称は上流域の地名・北川内による。源流は北川内西部の山地、東流して馬場田で古城川に合流する延長1.8kmの3次支川。


 古城(ふるじょう)橋

北川内川に架かる。橋の名称は古城という地名による。伊満福寺に連なる山の尾根に、曾井城が築かれる以前に城があった。その城は新しい曾井城に対して古い城、つまり古城といったことから村名となった。

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