大淀川の支流で0.3kmの1次支川。鶴田川が流れる水流田(つるた)の地名から付いた川の名称、「つる」という音から鶴に替えたと思われる。水流は川が湾曲した所または川の近くの土地に多く付けられる地名で、大淀川下流右岸には、上水流、中水流、下水流など水流の地名がおよそ15ヶ所あるが、いずれも同じような地形から付けられた地名である。
鶴田川はもともと恒久村に流れていた小川を、江戸時代に堀川として改修し、商人町として繁栄していた城ヶ崎の湊として活用されていた。鵜戸街道が中村町から城ヶ崎町へ通じ、多くの人や物の流通があったが、この街道が鶴田川と交わる所に石造の芳屋橋(『日向地誌』では吉屋橋)が昭和30年代まで架かっていた。橋の脇に芳屋という茶屋があったことが橋の名称となったと地元では伝えている。この橋は恒久小学校正門の少し北にあったが、現在橋は道路、川は暗渠になり見ることはできない。
江戸時代、城ヶ崎町に鶴田川以外にもう一つ堀川があり、古川と称していた。古川と鶴田川は八坂神社(古くは祇園神社)近くで合流、大淀川と接する所を共有していたという。古川は城ヶ崎の東を南下、塩飽(しあく)町で東流し八重川と合流していた。
城ヶ崎、恒久の東に古川という小字地名が、細長く「し」の文字状にあるが、城ヶ崎の堀川である古川は、地名として残ったとも考えられる。なお、塩飽町と古川が大淀川に接する辺りに勘場(かんば)と呼ばれる地名があった。現在古川は宅地や公園、耕地になっていて痕跡はまったく残っていない。
「勘場」〜舟の発着場、荷の積み降ろしと精算(勘定)が行われた所である。
|