200. 小丸川
小丸川の小丸は大字持田の小字で「兀の下(はげのした)」の西北にある小字(こあざ)名が残ったのであろうといわれている。大昔、小丸川が下鶴の付近で合流して流れていた頃、一つの支流が字小丸あたりを流れて再び本流と合流していたと考えられる。その証拠が兀の下の河跡湖であるといわれている。小丸の語源は「小まわり」で柳の木の下の曲がりなどを「柳丸」といったりすることもある。

 小丸川鉄道(おまるがわてつどう)橋

日豊線整備の一環として大正8年(1919)に小丸川鉄橋が着工、同10年(1921)春に長さが九州第一の805.49mの大鉄橋、小丸川鉄橋が完成した。これによって高鍋、美々津間の日豊線が開通した。
昭和20年(1945)6月29日の大空襲で小丸川鉄橋は大型爆弾の集中投下を受けて5ヵ所のガードが落ち不通となり、日豊線は折り返し運転となった。さらに昭和20年(1945)8月27日の台風で被害を受け、昭和23年(1948)3月20日に再建。さらに昭和35年(1960)6月コンクリート橋に架け替え工事を開始、長さ九州一の鉄橋の橋げた35本全部を、列車の運行のまま架け替えるという全国初の工事であった。そして36年(1961)春に完成したのがサイドビューのきれいな現在の小丸川鉄橋である。

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 高鍋(たかなべ)大橋

高鍋の地名の由来は、高鍋村は寛文以前は財部と称していたが、延寶元年(1673)、藩主秋月佐渡守種信が財部城を改築した時、それ以前慶長15年(1610)、豊臣秀吉から下された文書に高鍋とあるのに基づき、改めて高鍋と称したところから名付けられた。

昭和33年(1958)10月着工。40年(1965)4月6日竣工。国道10号の一部で、高鍋町を代表する橋。この橋の脇にある時計は、ソーラー時計としては、日本一の大きさで、通行車輌に時間を伝え続けている。

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 小丸(おまる)大橋

かつては長さ159間(約289m)の木造の橋(小丸川橋)であったが、洪水のたびに流出するので、仮橋が出来るまで渡し舟が利用されていた。特に終戦直後の枕崎台風の洪水では、小丸橋はその大部分が流失した。しかし、昭和21年(1946)9月28日、これまでの橋より約400m下手に旧新田原陸軍飛行場の格納庫の鉄骨を使った橋が新しく起工され、昭和23年(1948)3月26日、長さ約323.5mの橋梁が竣工した。

ワーレントラス形式の世界でもドイツに次いで2番目の珍しい橋梁であった。そしてそれまで小丸橋といわれていたのを、小丸大橋と呼ぶようになった。そしてさらに平成15年3月に現在の橋が新しく架け替えられた。

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 竹鳩(だけく)橋

地元ではこの橋のことを「もぐり橋」とも呼んでいた。今の橋は昭和31年(1956)7月5日に築かれた。長さ約216m、幅約2.9mの手すり(簡単な欄干)付きの潜水橋だが、台風の時には洪水で橋全体が水中に没するため、手すりは流されないように外すようになっている。この橋は幅が狭く車の離合は利かないが、木城町方面からの車の利用度の高い生活橋となっている。

竹鳩の由来は、かつて小丸川が切原川と合流したところが流れが急激に落ち込んで、たぎりたったのを地元では「ダケク」と呼んだという説と、竹林が多く野鳩も多くいたところから、その呼び名が付いたとの説がある。この場所はかつては安蔵(あんぞ)の渡しとも呼ばれていた。

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 小丸川(おまるがわ)橋

この橋は高鍋町史(年表)に「明治31(1898)年5月、小丸川橋架設工事請負きまる、長さ159間、費用3,199円56銭5厘」との記録がある。終戦直後(1945)の枕崎台風の洪水によって流され、替わって約400m下手に新しく小丸橋(現小丸大橋)として架け替えられた。従って小丸川橋は現存していない。

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 高城(たかじょう)橋

高城橋は高城の町と対岸の中河原、出店をつなぐ木製の橋が造られていたが、大水の度に流された。その後、町側の半分ぐらいが鉄橋になり、丈夫になったが、昭和20年(1945)の太平洋戦争の終わりごろ、県内でも珍しいその鉄橋めがけて、アメリカ軍のグラマン戦闘機が急降下で機銃掃射を繰り返した。荷物をいっぱい積んだ荷車がねらわれたといわれているが、怪我をした人がいたかどうか分からない。昭和29年(1954)には堤防その他大掛かりな河川改修工事が行われて立派な永久橋に生まれ変わった。高城は、この地にある城からその名がおこったものである。

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 比木(ひき)橋

比木地区は対岸に渡るには渡し船を使うか、荷馬車や重量のある物、家畜の運搬には遠回りして、川下の高城橋を行くしかなかった。農作業や山仕事に行くにも大変困っていた。ようやく昭和44年(1969)に農免道路整備事業が採択され、昭和47年(1972)に待望の永久橋が完成した。

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 川原(かわばる)橋

九州山地の谷間を流れてきた小丸川は、川原地区で大きくカーブし、広い平野をめざす。川原橋の工事は延岡−西都線の継続(けいぞく)工事として、昭和41年(1966)に完成した。川原は川が造った平地のことであろう。両側を高い山々にさえぎられて、谷間を流れ下ってきた小丸川は「県民河川自然公園」附近で、ゆったりとして大河の貫禄を見せている。橋の名前は、地域の名前から呼ぶようになったといわれている。

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 石河内(いしかわち)橋

石河内地区に、川原発電所に水を送るためのダムが造られた。ダム湖には、石河内地区の入口に通じる道路に小川が横切っていた。第1の永久橋は昭和31年(1956)に造られたが、この道路が県北部との交通や、小丸川上流地域の産業(特に林業、発電所)や日常生活のために改修され、平成13年に第2の石河内橋が第1の橋のすぐ横に架けられた。前に広がるダムの湖面を見ながら、第1の橋は自分が活躍した40年間の疲れを癒しているようだ。この上流にはまだ大きいダムが4箇所もある。橋の名前は地区の名前によっている。

石河内は、岩の多い河の奥地を意味する地名である。

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 中八重(なかばえ)橋

石河内にあるダム湖の右岸には、大正時代を代表する文学者・武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)が開いた「日向新しき村」がある。ここに白樺派を名乗る若者たちが集まってきた頃は、ダムもなかった。渡し舟か片道3kmを歩かなければならなかった。現在の橋は昭和39年(1964)につくられた。大型の自動車などは通れない。八重は、川の上流に付く地名で、この付近には、芋八重、白木八重などの地名がある。

新しき村には、現在3家族ほどの人たちが元気に農業に励んでいる。ここには町営の「武者小路実篤文学資料館」が造られている。

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 戸崎(とざき)橋

延岡・西都線の県道に架かる橋。木材搬出の板谷林道のために熊本営林局が架設。昭和32年(1957)完成。幅員を2.5mから4mに拡張する工事が、昭和37年(1962)に竣工。県管理となった。戸崎の地名からきている。

戸崎ダムの向こう側に戸崎橋がみえる。橋脚がきれいである。戸崎は峡谷の入り口付近に付く地名。

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 尾鈴(おすず)橋
上流に同じ名の橋がもうひとつあるがこの橋は別名を恐竜橋ともいわれる。鉄骨で作られた形が恐竜に似ているところから付いたと考えられる。若山牧水の生家はここの近くであり、彼の短歌「ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ、秋もかすみのたなびきており」から付けられたという説と、すぐ背後の尾鈴山にちなんでいるとの説の両説があるが、定かではない。おそらく両方であろう。この橋はレトロ感漂うクラシックな橋である。
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 上野野(かみのの)橋
小丸川が美郷町の下三ヶに入ったところにある。上野野という地名から付けられた。上野野は川の上流の小平地の意味と思われる。
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 尾鈴(おすず)橋
山名の尾鈴によるといわれる。古い橋の基礎は今も残っている。
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 田口八ツ山(たぐちやつやま)橋
平成15年完成。新設バイパスに架かる橋。田口原及び八ツ山は地名。合成された橋名であろう。
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 中水流(なかづる)橋
平成13年竣工。新設パイパスの橋。中水流は地名による。
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 201. 鴫野(しぎの)川

小丸川河口の北岸に流れ込む鴫野川は、延長2.1km。その昔百済(くだら)の王族であった福智王は、父・禎嘉王(神門神社祭神)、母・之伎野(しぎの)王妃とともに内乱を避けて海路からこの地に上陸した。この鴫野(しぎの)は、王妃「之伎野」(大年神社祭神)が住んでいたところから名付けられたと伝えられている。