202. 宮田(みやた)川

高鍋町は北の小丸川と南の宮田川の間に開けた肥沃な土地に、城下町として発展してきた。宮田川は茶臼原付近を源として東流し、古港の河口で日向灘に注いでいる。延長8km。舞鶴城跡の東側を流れていて、城の外堀の役割を果たしていたと思われる。
今日の宮田川の存在を大きくしているのは「高鍋湿原」である。高鍋湿原は宮田川を挟んで東部と西部の二つの湿原になっている。日本や世界的にも貴重な植物やトンボ類が生息している。宮田の地名は神社に属する水田をいう場合が多い。


 古港川橋梁(ふるみなとがわきょうりょう)

古港川橋架は大正9年(1920)日豊本線開通とともに竣工された鉄道橋である。宮田川の海に最も近い橋である。川は現在、細々と流れすぐ砂浜になっている。写真のように橋脚の間から白波が見える。
江戸時代に描かれた「高鍋藩領分絵図」(高鍋資料館所蔵)に「干潮には船の出入りなし、満潮の時は五枚帆までの船の出入りがある。湊(みなと)口は時々かわる」とある。その一番南側を流れていた頃を古港川といったようだ。『たかなべむかしばなし』(町教育委員会編)に古老の話として「宮田川の河口は港になっていました。その付近の地区を古港川と呼んでいましたが今もその名が残っています」と語られている。

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 古港(ふるみなと)橋

古港橋は、古港川橋架のすぐ上流の国道10号に架かる橋である。名称の由来は前項の鉄道橋と同じであろう。現在の橋は平成5年に竣工している。
欄干の四つ標柱の上に亀の親子の像が乗せてある。宮田川の古港一帯はアカウミガメ及びその産卵地として県の天然記念物指定地区になっている。アカウミガメは5月中旬から8月中旬にかけて産卵・孵化する。ボランティア団体が保護し「子ガメを送る会」を例年8月中旬に行っているが、その数は年々砂浜の環境の悪化で減少している。本年(2007)は500匹くらい海に放ったという。カリフォルニア沖で成育し20年後にこの浜に戻ってくる。

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 水路(すいろ)橋

水路橋は文字通り水だけを流す幅50〜60cmのヒューム管でつくった橋である。今は使われていないが、東児湯青果市場から、その西の樋渡(ひわたし)にいたる畑作地帯が「もひろげ」である。歴史的にみると興味深い。「地名は生きた化石のようなもので大事にしなければならない」とは、高鍋史友会会長だった故・石川正雄氏の言葉である。氏の『たかなべ地名の由来』を引用する。
「昔、朝鮮の百済(くだら)の王族であった福智王一行は内乱を避けてこの地に上陸し、潮に濡れた帆を広げたところから、「ほひろげ」といい、発音がなまって「もひろげ」になった。茂広毛、裳広解、藻広毛、毛比呂計とも書かれている」
現代になって現在のヒューム管製の橋が昭和43年(1968)頃つくられた。

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 二本松(にほんまつ)橋

二本松橋は、かつてそびえていた二本の松の巨木がその由来である。『たかなべ伝・伝』(高鍋町教育委員会編)に古老が次のように語っている。要約する。
「台地の上にそびており町外の人も目を見張るほど有名な夫婦松でした。私の家の畑がすぐ近くにあり、その木陰で昼時を過ごすことが度々ありました。広くひろがった枝の下は涼しい風が吹き食事がすごく楽しいものでした。昭和20年(1945)の枕崎台風でニ本とも折れてしまいました。」
二本松橋を渡ると台地の上に南九州大学がある。竣工は昭和48年(1973)。大学生らはこの橋を使って通学している。大学の都城への移転が決まったので、この橋も淋しくなることだろう。

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 欄干(らんかん)橋

欄干橋の名の由来は小字名「欄干」から来ているという。『たかなべむかしばなし』(ふるさとを伝える会編)に「狐の仕返し」という話がある。
「昔、お殿様が狩りに出かけられた。円福寺の下を流れる井出川(宮田川の別の名称)の中に女が幼子を抱いて気を失ったように立っていた。お城で手厚く介抱し、家に送り届けたが一向によくならない。その家の主人が数日前、狐の子を撃ったその仕返しだったそうだ。女は数ヵ月後にやっと快復した。無駄な殺生(せっしょう)は決してしてはならない」といっている。
円福寺は今も「らんかんさんのお寺」と地区や檀家の人々に親しまれている。現在の欄干橋は平成5年竣工したものである。

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 光音寺(こうおんじ)橋

高鍋町には、お寺の名を地名に残している所が多い。光音寺橋もその一つである。今でも光音寺という寺院の跡が、橋の南詰めの西の山中にわずかに残っている。現在の橋は昭和46年(1971)に竣工した永久橋である。地元では光音寺を(こんじ)と略していう。「高鍋町年表」で光音寺橋に関するものを拾ってみる。
・宝永7年(1710)洪水、光音寺橋流失
・宝暦4年(1754)大雨洪水、光音寺橋流失
・安永1年(1772)光音寺橋流失
昔、宮田川は暴れる川だったことがよく分かる。今では防災ダムが出来、橋の下には錦鯉が泳いでいる静かな川である。

 

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 奥の下(おくのした)橋

奥の下橋は地名に由来している。小字「奥の下」にあるからである。「奥」とは「奥御殿」つまり、藩主の生活の場所であった。その南下の地域を「奥の下」という。
高鍋城は政所(まつりどころ)と、藩主の奥御殿からなっていた。奥御殿は城の一番西にあり、今の護国神社の神域にあたる。「欄干橋」のむかし話でも明らかなように藩主を敬愛していた民が、奥御殿を見上げる地区を「奥の下」と自ら呼んだのであろう。
奥の下橋のやや下手、堀が城の大手門跡の前を南北530mに弧をえがいて残っている。今も水を湛(たた)え、四季折々の景観が楽しめる。このような状態で保存されているのは九州では珍しいそうである。

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 鐘塚(かねづか)橋

重間(しげはざま)という地名がある。高鍋農業高等学校の豚舎の西下の斜面から谷間一帯をいう。同校の果樹農場の南下でもある。その重間の南の低地が小字「鐘塚」である。西は小字「太平寺」に接する。
鐘塚橋の西北に写真に見える古墳のような丘陵がある。これが鐘塚橋の名の由来であろうが、古墳ではなく、標高28.5mの丘陵でその周りは水田である。形から梵鐘(ぼんしょう)を連想してその名としたのであろう。上に鐘撞(かねつ)き堂があったという説もある。現在の鐘塚橋は昭和39年(1964)竣工のものである。

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 太平寺(たいへいじ)橋

「太平寺橋」は歴史上の事実をもとにした地名に由来する。太平寺は高鍋で最も古い寺で養老3年(719)建立。明治3年(1870)廃寺。秋月氏より前の高鍋城主・土持氏の菩提寺(ぼだいじ)である。今も土持氏の墓があり町指定の文化財で、太平寺の老人会が大切に保護している。地元では太平寺を「てへじ」と略していう。
「太平寺橋」は昭和34年(1959)竣工で、人と自転車専用の「太平寺側道橋」が平成16年に併設された。
太平寺の脇より高鍋で一番古い「太平寺用水路」が5kmにわたってのび、高鍋の大動脈となっている。慶長17年(1612)、長友勘右衛門(ながともかんうえもん)によって開設されたと伝えられている。「勘右衛門用水路」とも呼ばれ町民に感謝されている。功績記念碑が城跡に建立されている。(「寺の名のゆかりの橋や蔦(つた)紅葉」辰彦)

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 高平(たかひら)橋

「高平橋」は地形から生じた名称である。防災ダムの東から東北にかけての字名で、太平寺地域の西にあたる。一帯が平坦であるから高平という地名が生まれた。
高平橋をさらに上に進むと、高鍋湿原の正面入り口に行き当たる。その間の景観がすばらしい。昔なつかしい棚田風景が左右に見られる。橋の袂(たもと)から左に舗装されていない細い砂利道が続いている。いわゆる「四季彩の郷(さと)づくり」計画の一環だそうである。昭和30年代の「よきふるさと風景を残そう」という郷づくりがすすめられている。春のレンゲソウ、秋の蕎麦(そば)の花など美しい棚田風景である。
現在の「高平橋」は昭和39年(1964)竣工した。狭いので、やがて広い新しい橋に架け替えられることだろう。

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 203. 塩田(しおた)川

北高鍋の東畑田から流れ、宮田川に合流する延長1.0km。宮田川の支流。満潮のときには、この辺りまで、潮があがっていたので、塩田の地名があるという。このことからついたものであろう。高鍋藩の塩田(えんでん)は深川にあったという。


 塩田(しおた)橋
地名・川名がそのまま橋の名となっている。(塩田のいわれは前項を参照)
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 204. 切原(きりばる)川

川南町北西部と木城町との境界にある上面木山(じょうめぎやま)の東側に源を発し、川南原を分断して十文字原と岩戸原とに分けている。主の丸川と岩戸原川の支流を集めて、川南台地の南麓を洗って、高鍋町の切原で小丸川に合流している延長10.8km。典型的な天井川で、過去幾多のはん濫を起こして水田、人畜に多大な被害を与えている。地元では切原川は、谷瀬戸川(たんせとがわ)と呼ぶ。切原川は下手の切原地区の名を取って付けたといわれている。切原のいわれについては、切原橋を渡ったところが「打切」と呼ばれているが、この「打切」とは「松山」「黒瀬」「久保畠」に続く平地が、切原川と小丸川に打ち切られているところから名付けられたものである。「打切」の側の原野が、「切原」であり、切原川の語源はここから出たものであろう。なお、400年前の高城合戦を伝えている『高城興亡之記』には、切原のことが「霧原」とあり、また佐土原藩士越智(おち)某の『佐土原より江戸までの旅日記』には金原と書かれている。


 切原(きりばる)橋

切原川に架かるところから、地名をもとに名付けられたものである。

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 西別府(にしのびゅう)橋

宮崎では別府と書いて「びゅう」と発音する。新しく開墾された土地のことをいう。川南町西別府地域は、切原川の左岸の台地にる。水田が少なく畑作地帯であった。しかしこの台地にも小丸川の川原ダムから農業用水が引けるようになり、水田や園芸作物が作られ、橋も鉄筋コンクリートに変わり、近隣の高鍋町竹鳩(だけく)、切原、木城町下鶴(しもづる)の地区にも、気軽に行くことができるようになった。西別府と湯迫を結ぶ「西別府大橋」が昭和56年(1981)に竣工した。

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 ほたる橋

平成14年に竣工したこの橋は、「耳川の戦い」の大友軍の陣が張られていた松山塁(るい)、川南古墳群に通じている。松山塁の台地には大友軍の戦死者、島津軍の戦死者合わせて数千人が埋葬されている大きな塚があり「カンカン仏」と呼ばれている。塚の南側に六面に仏像を彫った供養塔(六地蔵塔)が建てられている。大きな鐘をたたいてお参りする。
ほたる橋から下流の切原川一帯には夏の夜、無数の源氏蛍が発生する。その様は大昔、無残な戦いで死んでいった侍たちの魂が帰って来たようだという。この川にはホタルの幼虫の餌となる「カワニナ」がたくさん生息しているということである。歴史を語る橋である。

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 谷瀬戸(たにせと)橋

耳川の戦い(1578)では木城町の「城山(じょんやま)」に籠城していた島津軍と、谷瀬戸の川の東の崖上にある「松山塁」に本陣を張っていた大友軍との間に壮絶な戦闘が繰り返されたといわれる。また、昭和20年頃にはたびたび台風や大雨で切原川が増水し、立派な木造の谷瀬戸橋が流された。渇水期(かっすいき)には浅瀬を歩いて渡っていたという。橋の名前は地域の人がこの川を谷瀬戸川と呼んでいたことによる。永久橋は昭和58年(1983)に架けられた。

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 田神(たがみ)橋

田神地区は、主の丸川(しゅのまるがわ)の両岸と切原川の合流地点に点在する地域である。現在34戸からなる。耳川の戦い(1578)で大友側の一軍団が田間(たかん)に陣を構えたと書かれていたのは、田と田の間ではなく田神(たがみ)といったのが(たがん)と訛(なま)って聞こえ、それを(たかん=田間)と誤記したのではないかと、論争されたこともあったという。橋の名前は地域の名前によるものである。

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 205. 岩戸原(いわどばる)川

岩戸原川は、岩戸原地区が標高80mほどの台地にあるが、その谷間を流れる川が岩戸原川である。小字長草に発し、日子神社の裏手を通り、岩戸地区を通って下手で切原川に合流している延長2.5km。岩戸のいわれも、地元ではこの地が天孫降臨の地、天の岩戸の伝説にちなんでいるのではないか、またその昔この地区にほら穴状の場所があり、修験者がそこにこもって難行・苦行をしていたところから、岩戸の名が生まれたという言い伝えもある。


 岩戸(いわと)橋

昭和22年(1947)頃、地区の人が「岩戸原」と呼んでいる台地を開墾していると、偶然にも経筒(きょうづつ)を掘り出した。昭和41年(1966)に大学教授が再調査をして、経塚であることが確認された。また、建武3年(1336)南北朝の戦いの時、岩戸原と彦尾の合戦があり、武家方に手柄があったことが記録されている。高城の裏側にある集落であるが、熊本、北九州などとの交流もあって、時代の動きに素早く反応する気風がうかがえる。橋の名前は地域の名前によるものである。

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 206. 主の丸(しゅのまる)川

木城町高城寺尾から流れ、切原川に合流する延長2.0km。切原川の支流。地元の人に聞いても名前の由来はよく分かっていない。



 207. 白鬚(しらひげ)川

川南町西南部の上面木山(じょうめぎやま)の南東の麓から流れ出て白鬚神社の近くで切原川に流れ込んでいる川。延長1.8km。白鬚の地名の由来は、その昔、この地に住んでいた漁師の浦島太郎が、琉球に釣りに出かけて帰ってきた時に、白鬚の老人になっていたという伝説、もう一つは、白鬚神社の祭神で、七百余年の寿命を得たとされる「サルタヒコノミコト」の白ひげにちなんだという説もある。



 208. 黒水(くろみず)川

木城町の黒水川は谷川地区の小屋町峠に源を発している。岩戸原を分断して山塚原を形成し駄留(だとめ)、仁君谷(にきみだに)において小平地をつくり、小丸川に合流している。延長6.0km。土地の人に「クロンゴガワ」と呼ばれている。
岩戸原が黒土であるため、洪水のたびに黒い水が流れていたところから名付けられたものと伝えられている。
「クロンゴ」の語源であるが、『広辞苑』に宮・神に仕える人を「蔵人」(くろうど・くらうど)とある。そのような人々がこの地に住んでいたのではないか。その方言化などで「クロンゴ」となり、出水の濁流の黒い水の川と重なった。これが「黒水川」の名の由来と思われる。川底が黒い岩盤からきたという説もある。海岸で今も珍しい黒い小石が見つかる。庭師たちは、これを拾ってきて今も庭に使っている。


 黒水川(くろみずがわ)橋

黒水川橋は一番下流の橋である。全国的に一番目の橋にその川の名前を付ける慣(なら)わしになっているという。現在の黒水川橋は平成16年竣工。黒水川橋の下手に黒水川がつくった平地(河川敷)がある。工場、団地、サッカー場などができている。
橋の欄干の標柱に橋の名前や町花のコスモスが刻まれている。木城小学校は平成初め子ども俳句集「コスモス」を発行していた。その中にこの橋のすぐそばに住んでいた女の子の句がある。
「飛行機がくぐって行くよ虹の輪を」
また、同じ組の男の子の句に
「コスモスの花からコーナーキックする」などがある。

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 駄留(だとめ)橋

駄留地区はちょっとした平地で、五つの地区に接している。その地区にあるから駄留橋というのだろう。高鍋藩は政策として各地で馬を多く養った。その名残が周知の都井岬の岬馬である。特に木城では馬の頭数が多く『日向地誌』には、物産として駒2000頭の記載がある。駄留というのは、馬が逃げないようにつないでおくことから生じた語で、馬の関所の意味もある。近くに見事な梅林があり、おだやかな里である。松尾芭蕉の名句
『やまざとはまんざい遅し梅の花』
が、よく似合う土地である。

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 209. 渡(ど)川

小丸川の支流。『日向地誌』には「渡川」としてすでに記述されている。しかし、渡川の由来については不明。上流の美郷町に渡川ダムと県営渡川発電所がある。昭和31年(1956)に完成した大型ダム。


 新渡川(しんどがわ)橋
川岸に石垣のあるところをみるとかつての激流の跡と考えられる。渡川の川名と同様に地名からきたものである。
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 渡川大(どがわおおはし)橋
渡川の地名からつけられたものである。渡川地区は交通不便な奥地であったが、今は「ひむか神話街道」が通っている。
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